迷妄への誘い.


	第五章　第二話　　　　　　　　迷妄への誘い

	山岸昇の村里に遅い秋が来ようとしていた。憎悪の念が現れて、既に三ヶ月が経過をしている。念の力に衰えは無く、むしろ、それは増大していた。現れる頻度も増して居り、昇の繊細な神経は危うい所にまで追い込まれていた。だが、彼は未だに、その念が何処から来るのかを知ら無かった。無論、為す術など在る筈も無く、ただ恐れ戦き、時を浪費するだけなのである。今、昇は例の如く、縁側での昼寝を貪っている。安眠などは出来なかったが、彼の逃げ場は其処しか無かった。だが、それも何時、魔物が現れ、破られるかも分からぬのである。昇は今、覚醒とまどろみの狭間で縋る物も無く漂っていた。と、何処から聞こえて来るのだろうか？女の声が呼び掛ける。ほんのりと、芳しい香りも鼻を掠めた。匂い袋の香りらしい。「ああ、女の匂いだ！」昇はまどろみの中で呟いた。和服をあでやかに着粉した美しい女が連想される。「だが、これは果たして現実だろうか？」昇はそう疑った。此処数年、昇を訪れる者などは皆無と言っても過言では無い。まして、着飾った女など考えられぬ話であった。「夢を見ているのだ　・　・　」うつらうつらとした意識の中で、昇はそう納得をした。だが、匂い袋の怪しい香りは現の様に鼻を擽る。邪な幻影がやにわに駆け抜け、熱いものが込み上げ始めた。「まあ、夢でも良いか？だが、どんな女が出るんだろうか？」昇はまどろみの直中で官能のひとときを期待していた。しかし、幻夢の展開などは想いの通りには動いてくれぬ。邪な期待も不味かった。妙に意識がはっきりして来る。まどろみの淵から抜け出して、現実へと向かって浮上を始めた。「せっかくの夢を、冗談じゃない　・　・　」彼はまどろみに引き返そうと、膝を抱えて身体を丸めた。だが、一旦、動いた彼の意識は容赦も無く、まどろみから浮上をして行く。必死の抵抗にも関わらず、ついには完全に覚めて仕舞った。「チッ、何てえこったい！」昇は眼を閉じた儘、悔しそうに呟いた。だが、妙である。声は再び呼び掛ける。「ン？夢では無いのか？」昇はのっそりと体を起こすと、訝しげに辺りを見回した。小さな庭には雀が数羽、飛び跳ねながら戯れている。他には誰も居なかった。匂い袋の香りもし無い。「ふん、どうせ、こんなこったよ、居るわきゃ無い　・　・　」自嘲気味に呟くと、またしてもゴロンと寝転んだ。
	だが、あの声は一体、何だったのか？「起きてんだから、夢じゃ無いよな　・　・　幻聴か？」彼は其処に気が付くと、一瞬、愕然とし、遠くを眺めた。「自分はもう狂って居るのだろうか？いや、もう、まともじゃ無いんだ」氷のような絶望がカラッポの心に虚しく響いた。怠惰な今までの生活が走馬燈のように脳裏を過ぎる。だが、今更、悔やんでも仕方が無かった。「ケッ！、もう、どうでも良いや、勝手にしやーがれ！」淫靡な夢で楽しめるなら、それはそれで良いでは無いか！村人を襲って殺すのだって、気の触れた所為なのなら、し様が無い。「俺の所為じゃあ無いもんな！」やけっぱちに呟くと、膝を抱えて身体を丸めた。何処かでカタカタ、と音がする。風が吹いて来たのらしい。寝入ろうとすると音がした。
	「うるさいな！、寝られやし無い！」彼は虚空に向かって呟いた。無視をしようとはするのだが、何故かは知らぬが気に掛かる。良く聞くと規則的に鳴っていた。「何だろう？」昇はソッと薄目を開けて、音のする方を覗き見た。誰かが、戸でも叩いて居るのだ。「また、悪ガキの悪戯だろう　・　・　」彼はボソッと呟くと、けだるそうに瞼を閉じた。と、その刹那、女の声が呼び掛けた。「ご免下さい、山岸さん、おいでです？」若干の京都訛だ。地元の人間では無さそうだった。だが、地元の人間ですら近付かぬのに、何をしに来た、と言うのだろうか？保険の勧誘かも知れ無いし、利殖を騙った詐欺かも知れ無い。いずれにしても、ろくな用事では無いのだろう。「面倒だ、放って置こう」昇は再び寝ころんだ。と、その時である。ふっと香りが鼻を掠めた。まどろみの中でほのかに香った匂い袋の芳香である。最前、感じた怪しい疼きがやおら昇を突き上げた。「まあ、いいや、顔ぐらい出しても罰は当たらんだろ」昇は素早く体を起こすと、いそいそと居間を横切った。そして、土間を降りると、返事をしながら戸を開けた。見ると、其処には、楚々とした着物の女が佇んでいる。三十の半ばとは思えるが、ここら辺では滅多に見られぬ落ち着いた感じの美形であった。「何と、きれいな女だろうか！」昇は思わずジロジロと女の全身を眺め渡した。すると、女が微笑み掛ける。「私、南方美穂、と申します、実は神の思し召しで、あなたの、あの憎悪の事を知ったのですが　・　・　」初対面にも関わらず、いきなり、何を言うのだろうか？昇は唖然として、女を睨んだ。しかし、女は怯みもせずに落ち着いた口調で話を続ける。怠惰な生活が災いし、恐ろしい悪霊が取り付いている、と言う。心当たりの在るだけに、昇は対応に戸惑った。そして、恐れた。昇はその時、女の影にある種の魔性を感じたのである。女が言った。「でも、あなたに防ぐ力など御座いませんのよ、神の助けが必要なのです、私がお願いをして差し上げますから、どうか、祈祷をお受け下さい　・　・　いえ、祈祷料など要りませんのよ、神の思し召しで、するのですから　・　・　」そして、神や魂の摂理とやらを、なめらかな言い回しで語るのだった。怪しげな女の言葉には喩え様の無い力が在った。何故か心が安らいで行く。全てを女に任せれば、本当に救われる様にも思われた。だが、昇は神など信じて居ない。「どうせ、似非宗教の勧誘か、霊感商法の類だろう？危ねえなあ」ジロジロと女を眺め見て、そんな具合に考え直した。
		だが、疑問は残る。女は如何にして、山岸の苦境を知ったのだろうか？昇には、悩みを語る相手など皆無、と言っても良いのである。女が人伝に聞くなどは考えられぬ話であった。「やはり、霊の能力でも在るのだろうか？」だが、村人の噂を盗み聞き、推測をした事も考えられる。「どうも怪しい　・　・　」昇は女を横目で睨んだ。だが、女には、動揺の色は見られ無かった。慈しむような顔付きで、てらいも無しに微笑み掛ける。昇は目線を合わせ兼ね、女の足下へと視線を落とした。と、女が言った。「突然に伺って、こんな事を言うのですもの、お疑いも当然でしょうね　・　・　けれど、ご心配など要りませんのよ？時間は余り無いのです、良くお考えに成って下さいな？」たおやかで、とろけるような響きであった。ささくれだった昇の心に甘露のように染み込んで行く。彼は魅入られたように頷いた。
	それからというもの、女は度々、遣って来た。昇を後ろに座らせて、一心不乱に祈祷する。昇には欠かせぬ日課とも成って居た。だが、肝心の祈祷は果たして利いて居るのだろうか？憎悪の念に衰えは無く、以前にも増して現れる。「ちっとも良くは成りはし無い、やはり、祈祷は偽物なのか？」女への関心とは裏腹に疑念そのものは深まっていた。だが、そんなある日、女は祈祷をし終えると、ふっと昇を振り向いて、怪しい笑みを投げ掛けた。そして、言った。「で、如何です？憎悪の念は　・　・　まだ恐ろしい、と感じます？」もしも、他人が聞いたなら、極めて奇妙な問い掛けである。だが、今の昇には理解が出来た。女の奇妙な問い掛けは山岸の密かな心配を見事に言い当てて居たからだった。確かに今の山岸は憎悪の念を、それほど疎ましいもの、とは思って無かった。事実はむしろその逆で、何やら隠微で秘めやかな自虐的快楽をすら覚えるのである。無論、昇の本意では無く、女に祈祷をさせて居るのも、それを払う為ではあった。にも関わらず、自分の心はどんどんと、怪しげな方向へと変化をして行く。昇の心配は其処に在った。「この女は果たして俺を何処に導こう、と言うのだろう？この儘では、地獄の淵にも落とされ兼ね無い」そんな想いが益々、募り、彼を不安にさせたのだった。だが、昇はその様な疑念をあえて胸にしまい込み、おくびにすらも表さなかった。もしも、疑念を露にしたなら、女は昇から去るかも知れ無い。その事が耐えられぬ程に恐かったのである。だが、今しがた、女はその事を口にした。彼の疑念は疑念では無く、真実そのものであるのらしい。女は無情にもその事を否応も無く突き付けたのである。昇の疑念を察知して開き直ったのに違い無い。「何という女なのか！」昇の眼が血走った。だが、追い詰められたそんな昇に、女はなおも言葉を浴びせた。「さあ、どうなの？感じ方が変わったのでしょう？」その目が返事を促している。しかし、昇は目線を反らし、虚空を睨んで答え無かった。
	女が言った。「さあ、白状なさい？あなたの邪な欲望を、淫靡でいやらしい心の内を　・　・　」そして、「フフッ？」と、鼻で笑った。知られたく無い心の動きを、女は的確に突いて来る。柔らかな女の物言いが針の様に心を刺した。居たたまれぬ想いが昇を苛む。「そうさ、俺はいやらしい人間だよ！、淫靡な事が大好きなんだ、だから、どうだっつうんだい！、エッ？」昇は思わず開き直った。だが、妙である。女は眉のひとつも動かさず、またしても、「ふふっ？」と、含んで笑う。「あなたを焦らして、からかって居るのですよ？」そんな風にも言いたげである。「嘗めるんじゃあねえよ！」昇は声を荒げて、喚き散らした。
	だが、女は冷ややかに昇を見つめる。強い調子で言い立てた。「あなたは自分を知らねば為りません、あの憎悪の念は、あなた自身なのですからね！」何と恐ろしい事を言うのだろうか？昇の顔から血の気が失せた。薄々は気付いている心の内を否応なしに突き付けられて、意識せざるを得ぬからだった。出来得れば、無意識の底に沈めたい隠微な自らの欲望である。昇は両手で頭を抱え、「嘘だ！、嘘だ！」と、叫び続けた。怪しい予感が脳裏を過ぎる。背中の辺りに悪寒が走ると、忌まわしきあの念が憎悪を増して、迸る様に吹き出し始めた。不覚にも、自虐的な快感が彼の全身を愛撫している。どうし様も無い屈辱感が昇をしきりと責め立てた。「この女だ！この女が仕組んだんだ！」昇は胸を掻きむしり、必死の形相で女を睨んだ。怒りが身体を熱くする。そして、それは何故だろう？淫靡な欲情へと変わって行った。眼前に座る聖なる女の愛撫にのたうつ怪しい姿が現の様に脳裏を巡る。「犯せ、犯せっ！」と、声が聞こえた。「ああ、気が違いそうだ！」昇は思わず頭を抱え、身体をよじって這い蹲った。しかし、怪しげなるその声は彼の内部から聞こえるのである。「この声が俺だ、というのか！」昇は振り解くように頭を振って、懇願するように女を仰いだ。奈落へと誘う女では在ったが、彼の苦しみを知る者はやはり、この女しか居ないのである。「俺を救う、と言ったでは無いか！」昇は呻くように呟いた。だが、女の態度は不可解である。勝ち誇ったように、「ホホホッ」と、笑うと、怪しげな視線を昇に送り、やおら膝を崩すのだった。僅かに割れた裾からは真っ白な足首が悩ましい。臀部の柔らかな曲線が心地の良い重みを連想させた。
		女が言った。「山岸さん？もう、お好きなように為さりません？恐れる事など在りませんのよ？さあ、早くこちらへいらっしゃい？」女の発する芳香が濃艶な色気を漂わせ、その柔らかな唇が挑むように鈍く光った。身体の芯が異様に燃える。ぎらぎらとした目が女を睨んだ。だが、昇は何故か動か無かった。女への疑念の故なのか？それとも、奈落へのためらいなのか？情欲の炎で身を焦がし、這い蹲って身悶えしていた。と、怪しげである。女の帯がやおら蠢き、生き物のようにズルッ、と解けた。見る間にまだらの蛇と化し、女の身体へと巻き付いて行く。足首の辺りに首を絡ませ、着物の裾へと割って入った。女は足を九の字に曲げて、振り解こう、と抵抗している。しかし、蛇は構わずに、更に奥へと進んで行った。
	今、自分で仕掛けた筈の怪しい女が必死の形相で抵抗している。長い髪を振り乱し、首を左右に振る様は地獄絵図のように美しかった。真っ白な太股が露わに見える。胸がはだけ、乳房が見えた。唇を噛み、耐える姿が苦痛の程を知らしめる。散乱をした着物の上で美穂の裸体が身悶えしていた。そして、悶える裸体には、まだらの大蛇が巻き付いている。両の乳房を揉みしだき、太股や股間を這いながら極めて優しくゆっくりと、隠微な感じで締め付けた。真っ赤に燃えるその舌が白い肌を愛撫する。女は首を左右に振って、苦しげにあえぎ、身を捩らせた。だが、女の充血した瞳には、微かな潤みも見て取れる。肌もしっとりと汗ばんで、仄かな上気も現れ始めた。虚ろな眼が恍惚として、陶酔の程を露わにしている。蛇はなおも、その肌を嘗める様に這いずり回った。女の口が微かに開いて、甘いあえぎを漏らし始める。蛇は益々、怪しく蠢き、女の身体を絞め上げた。女の右手と左の足が蛇を狂おしげに抱いている。蛇の身体が激しくうねると、女の口が大きく開いた。高い声が、「ああーっ！」と、響いた。



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	第五章　第二話　　　　　　　　迷妄への誘い

	山岸昇の村里に遅い秋が来ようとしていた。憎悪の念が現れて、既に三ヶ月が経過をしている。念の力に衰えは無く、むしろ、それは増大していた。現れる頻度も増して居り、昇の繊細な神経は危うい所にまで追い込まれていた。だが、彼は未だに、その念が何処から来るのかを知ら無かった。無論、為す術など在る筈も無く、ただ恐れ戦き、時を浪費するだけなのである。今、昇は例の如く、縁側での昼寝を貪っている。安眠などは出来なかったが、彼の逃げ場は其処しか無かった。だが、それも何時、魔物が現れ、破られるかも分からぬのである。昇は今、覚醒とまどろみの狭間で縋る物も無く漂っていた。と、何処から聞こえて来るのだろうか？女の声が呼び掛ける。ほんのりと、芳しい香りも鼻を掠めた。匂い袋の香りらしい。「ああ、女の匂いだ！」昇はまどろみの中で呟いた。和服をあでやかに着粉した美しい女が連想される。「だが、これは果たして現実だろうか？」昇はそう疑った。此処数年、昇を訪れる者などは皆無と言っても過言では無い。まして、着飾った女など考えられぬ話であった。「夢を見ているのだ　・　・　」うつらうつらとした意識の中で、昇はそう納得をした。だが、匂い袋の怪しい香りは現の様に鼻を擽る。邪な幻影がやにわに駆け抜け、熱いものが込み上げ始めた。「まあ、夢でも良いか？だが、どんな女が出るんだろうか？」昇はまどろみの直中で官能のひとときを期待していた。しかし、幻夢の展開などは想いの通りには動いてくれぬ。邪な期待も不味かった。妙に意識がはっきりして来る。まどろみの淵から抜け出して、現実へと向かって浮上を始めた。「せっかくの夢を、冗談じゃない　・　・　」彼はまどろみに引き返そうと、膝を抱えて身体を丸めた。だが、一旦、動いた彼の意識は容赦も無く、まどろみから浮上をして行く。必死の抵抗にも関わらず、ついには完全に覚めて仕舞った。「チッ、何てえこったい！」昇は眼を閉じた儘、悔しそうに呟いた。だが、妙である。声は再び呼び掛ける。「ン？夢では無いのか？」昇はのっそりと体を起こすと、訝しげに辺りを見回した。小さな庭には雀が数羽、飛び跳ねながら戯れている。他には誰も居なかった。匂い袋の香りもし無い。「ふん、どうせ、こんなこったよ、居るわきゃ無い　・　・　」自嘲気味に呟くと、またしてもゴロンと寝転んだ。
	だが、あの声は一体、何だったのか？「起きてんだから、夢じゃ無いよな　・　・　幻聴か？」彼は其処に気が付くと、一瞬、愕然とし、遠くを眺めた。「自分はもう狂って居るのだろうか？いや、もう、まともじゃ無いんだ」氷のような絶望がカラッポの心に虚しく響いた。怠惰な今までの生活が走馬燈のように脳裏を過ぎる。だが、今更、悔やんでも仕方が無かった。「ケッ！、もう、どうでも良いや、勝手にしやーがれ！」淫靡な夢で楽しめるなら、それはそれで良いでは無いか！村人を襲って殺すのだって、気の触れた所為なのなら、し様が無い。「俺の所為じゃあ無いもんな！」やけっぱちに呟くと、膝を抱えて身体を丸めた。何処かでカタカタ、と音がする。風が吹いて来たのらしい。寝入ろうとすると音がした。
	「うるさいな！、寝られやし無い！」彼は虚空に向かって呟いた。無視をしようとはするのだが、何故かは知らぬが気に掛かる。良く聞くと規則的に鳴っていた。「何だろう？」昇はソッと薄目を開けて、音のする方を覗き見た。誰かが、戸でも叩いて居るのだ。「また、悪ガキの悪戯だろう　・　・　」彼はボソッと呟くと、けだるそうに瞼を閉じた。と、その刹那、女の声が呼び掛けた。「ご免下さい、山岸さん、おいでです？」若干の京都訛だ。地元の人間では無さそうだった。だが、地元の人間ですら近付かぬのに、何をしに来た、と言うのだろうか？保険の勧誘かも知れ無いし、利殖を騙った詐欺かも知れ無い。いずれにしても、ろくな用事では無いのだろう。「面倒だ、放って置こう」昇は再び寝ころんだ。と、その時である。ふっと香りが鼻を掠めた。まどろみの中でほのかに香った匂い袋の芳香である。最前、感じた怪しい疼きがやおら昇を突き上げた。「まあ、いいや、顔ぐらい出しても罰は当たらんだろ」昇は素早く体を起こすと、いそいそと居間を横切った。そして、土間を降りると、返事をしながら戸を開けた。見ると、其処には、楚々とした着物の女が佇んでいる。三十の半ばとは思えるが、ここら辺では滅多に見られぬ落ち着いた感じの美形であった。「何と、きれいな女だろうか！」昇は思わずジロジロと女の全身を眺め渡した。すると、女が微笑み掛ける。「私、南方美穂、と申します、実は神の思し召しで、あなたの、あの憎悪の事を知ったのですが　・　・　」初対面にも関わらず、いきなり、何を言うのだろうか？昇は唖然として、女を睨んだ。しかし、女は怯みもせずに落ち着いた口調で話を続ける。怠惰な生活が災いし、恐ろしい悪霊が取り付いている、と言う。心当たりの在るだけに、昇は対応に戸惑った。そして、恐れた。昇はその時、女の影にある種の魔性を感じたのである。女が言った。「でも、あなたに防ぐ力など御座いませんのよ、神の助けが必要なのです、私がお願いをして差し上げますから、どうか、祈祷をお受け下さい　・　・　いえ、祈祷料など要りませんのよ、神の思し召しで、するのですから　・　・　」そして、神や魂の摂理とやらを、なめらかな言い回しで語るのだった。怪しげな女の言葉には喩え様の無い力が在った。何故か心が安らいで行く。全てを女に任せれば、本当に救われる様にも思われた。だが、昇は神など信じて居ない。「どうせ、似非宗教の勧誘か、霊感商法の類だろう？危ねえなあ」ジロジロと女を眺め見て、そんな具合に考え直した。
		だが、疑問は残る。女は如何にして、山岸の苦境を知ったのだろうか？昇には、悩みを語る相手など皆無、と言っても良いのである。女が人伝に聞くなどは考えられぬ話であった。「やはり、霊の能力でも在るのだろうか？」だが、村人の噂を盗み聞き、推測をした事も考えられる。「どうも怪しい　・　・　」昇は女を横目で睨んだ。だが、女には、動揺の色は見られ無かった。慈しむような顔付きで、てらいも無しに微笑み掛ける。昇は目線を合わせ兼ね、女の足下へと視線を落とした。と、女が言った。「突然に伺って、こんな事を言うのですもの、お疑いも当然でしょうね　・　・　けれど、ご心配など要りませんのよ？時間は余り無いのです、良くお考えに成って下さいな？」たおやかで、とろけるような響きであった。ささくれだった昇の心に甘露のように染み込んで行く。彼は魅入られたように頷いた。
	それからというもの、女は度々、遣って来た。昇を後ろに座らせて、一心不乱に祈祷する。昇には欠かせぬ日課とも成って居た。だが、肝心の祈祷は果たして利いて居るのだろうか？憎悪の念に衰えは無く、以前にも増して現れる。「ちっとも良くは成りはし無い、やはり、祈祷は偽物なのか？」女への関心とは裏腹に疑念そのものは深まっていた。だが、そんなある日、女は祈祷をし終えると、ふっと昇を振り向いて、怪しい笑みを投げ掛けた。そして、言った。「で、如何です？憎悪の念は　・　・　まだ恐ろしい、と感じます？」もしも、他人が聞いたなら、極めて奇妙な問い掛けである。だが、今の昇には理解が出来た。女の奇妙な問い掛けは山岸の密かな心配を見事に言い当てて居たからだった。確かに今の山岸は憎悪の念を、それほど疎ましいもの、とは思って無かった。事実はむしろその逆で、何やら隠微で秘めやかな自虐的快楽をすら覚えるのである。無論、昇の本意では無く、女に祈祷をさせて居るのも、それを払う為ではあった。にも関わらず、自分の心はどんどんと、怪しげな方向へと変化をして行く。昇の心配は其処に在った。「この女は果たして俺を何処に導こう、と言うのだろう？この儘では、地獄の淵にも落とされ兼ね無い」そんな想いが益々、募り、彼を不安にさせたのだった。だが、昇はその様な疑念をあえて胸にしまい込み、おくびにすらも表さなかった。もしも、疑念を露にしたなら、女は昇から去るかも知れ無い。その事が耐えられぬ程に恐かったのである。だが、今しがた、女はその事を口にした。彼の疑念は疑念では無く、真実そのものであるのらしい。女は無情にもその事を否応も無く突き付けたのである。昇の疑念を察知して開き直ったのに違い無い。「何という女なのか！」昇の眼が血走った。だが、追い詰められたそんな昇に、女はなおも言葉を浴びせた。「さあ、どうなの？感じ方が変わったのでしょう？」その目が返事を促している。しかし、昇は目線を反らし、虚空を睨んで答え無かった。
	女が言った。「さあ、白状なさい？あなたの邪な欲望を、淫靡でいやらしい心の内を　・　・　」そして、「フフッ？」と、鼻で笑った。知られたく無い心の動きを、女は的確に突いて来る。柔らかな女の物言いが針の様に心を刺した。居たたまれぬ想いが昇を苛む。「そうさ、俺はいやらしい人間だよ！、淫靡な事が大好きなんだ、だから、どうだっつうんだい！、エッ？」昇は思わず開き直った。だが、妙である。女は眉のひとつも動かさず、またしても、「ふふっ？」と、含んで笑う。「あなたを焦らして、からかって居るのですよ？」そんな風にも言いたげである。「嘗めるんじゃあねえよ！」昇は声を荒げて、喚き散らした。
	だが、女は冷ややかに昇を見つめる。強い調子で言い立てた。「あなたは自分を知らねば為りません、あの憎悪の念は、あなた自身なのですからね！」何と恐ろしい事を言うのだろうか？昇の顔から血の気が失せた。薄々は気付いている心の内を否応なしに突き付けられて、意識せざるを得ぬからだった。出来得れば、無意識の底に沈めたい隠微な自らの欲望である。昇は両手で頭を抱え、「嘘だ！、嘘だ！」と、叫び続けた。怪しい予感が脳裏を過ぎる。背中の辺りに悪寒が走ると、忌まわしきあの念が憎悪を増して、迸る様に吹き出し始めた。不覚にも、自虐的な快感が彼の全身を愛撫している。どうし様も無い屈辱感が昇をしきりと責め立てた。「この女だ！この女が仕組んだんだ！」昇は胸を掻きむしり、必死の形相で女を睨んだ。怒りが身体を熱くする。そして、それは何故だろう？淫靡な欲情へと変わって行った。眼前に座る聖なる女の愛撫にのたうつ怪しい姿が現の様に脳裏を巡る。「犯せ、犯せっ！」と、声が聞こえた。「ああ、気が違いそうだ！」昇は思わず頭を抱え、身体をよじって這い蹲った。しかし、怪しげなるその声は彼の内部から聞こえるのである。「この声が俺だ、というのか！」昇は振り解くように頭を振って、懇願するように女を仰いだ。奈落へと誘う女では在ったが、彼の苦しみを知る者はやはり、この女しか居ないのである。「俺を救う、と言ったでは無いか！」昇は呻くように呟いた。だが、女の態度は不可解である。勝ち誇ったように、「ホホホッ」と、笑うと、怪しげな視線を昇に送り、やおら膝を崩すのだった。僅かに割れた裾からは真っ白な足首が悩ましい。臀部の柔らかな曲線が心地の良い重みを連想させた。
		女が言った。「山岸さん？もう、お好きなように為さりません？恐れる事など在りませんのよ？さあ、早くこちらへいらっしゃい？」女の発する芳香が濃艶な色気を漂わせ、その柔らかな唇が挑むように鈍く光った。身体の芯が異様に燃える。ぎらぎらとした目が女を睨んだ。だが、昇は何故か動か無かった。女への疑念の故なのか？それとも、奈落へのためらいなのか？情欲の炎で身を焦がし、這い蹲って身悶えしていた。と、怪しげである。女の帯がやおら蠢き、生き物のようにズルッ、と解けた。見る間にまだらの蛇と化し、女の身体へと巻き付いて行く。足首の辺りに首を絡ませ、着物の裾へと割って入った。女は足を九の字に曲げて、振り解こう、と抵抗している。しかし、蛇は構わずに、更に奥へと進んで行った。
	今、自分で仕掛けた筈の怪しい女が必死の形相で抵抗している。長い髪を振り乱し、首を左右に振る様は地獄絵図のように美しかった。真っ白な太股が露わに見える。胸がはだけ、乳房が見えた。唇を噛み、耐える姿が苦痛の程を知らしめる。散乱をした着物の上で美穂の裸体が身悶えしていた。そして、悶える裸体には、まだらの大蛇が巻き付いている。両の乳房を揉みしだき、太股や股間を這いながら極めて優しくゆっくりと、隠微な感じで締め付けた。真っ赤に燃えるその舌が白い肌を愛撫する。女は首を左右に振って、苦しげにあえぎ、身を捩らせた。だが、女の充血した瞳には、微かな潤みも見て取れる。肌もしっとりと汗ばんで、仄かな上気も現れ始めた。虚ろな眼が恍惚として、陶酔の程を露わにしている。蛇はなおも、その肌を嘗める様に這いずり回った。女の口が微かに開いて、甘いあえぎを漏らし始める。蛇は益々、怪しく蠢き、女の身体を絞め上げた。女の右手と左の足が蛇を狂おしげに抱いている。蛇の身体が激しくうねると、女の口が大きく開いた。高い声が、「ああーっ！」と、響いた。



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