第十一章 第一話
        
      狂者の企て
 
 
 
昇は人の気配で目が覚めた。多くの足音が反響し、外が奇妙にざわ付いている。窓の隅から外を覗くと、妙な出で立ちをした 人間達が慌ただしい様子で往来していた。何故かは知らぬが、此の処、同時刻に成ると、こうなのである。だが、疎ましくは無く、 その有様を眺める事はむしろ密かな楽しみだった。陰惨な想像が掻き立てられて、異様な興奮を覚えるのである。
昇は今、その想像を実現しようと、生け贄までをも物色していた。悪鬼と化した自分自身への生け贄である。 既にその候補者は数十名にも成ろうとして居た。「そろそろ、行動を起こさなくては」昇はギロッと白目を剥いて、 陰湿な様子でニタリ、と笑った。
だが、実行をするのに当たっては、解決をすべき悩みが在った。一般に、生け贄は殺して捧げるのが普通であるが、 昇の作ったリストには殺すのには惜しい数人の女も含まれている。「生身の女を頂いて、生け贄と呼んで良いのだろうか?」 昇に取って、それは極めて重大な問題である。昇は女等を見掛ける度に、よだれを流して思案をしていた。
だが、人間は何に付けても、都合を良く考える動物でもある。悩みは直に解消された。彼女等は他人に捧げる生け贄では無い。 あくまでも自分自身への生け贄である。「なら、どう扱ったって、それは自分の勝手だろ? 頂いてから捧げても構わ無いよな?」 昇はペロッ、と舌を出し、ニタリ、と笑って、うそぶいた。
と、昇の視線でも感じたのだろうか? ドアの向こうから男が覗いた。彼も生け贄の候補者である。 昇は男と視線が合うと上目を使って、ニタリ、と笑った。 すると、男がドアを開け、にこやかな顔で呼び掛ける。「おはようございます、山岸さん、今日はご機嫌なようですね、 さあ、お薬のお時間ですよ?」

それは数ヶ月ほど前の出来事だった。零時を僅かに回った頃である。村の一角から火の手が上がった。夜の闇を不気味に照らして、 しきりと炎を吹き上げる。半鐘が鳴り、村中が叩き起こされた。村人が外に出、火炎を仰ぐと、どうやら山岸の家である。
「昇の奴、どんなヘマを遣らかしたんだ?」火を見て興奮でもしたのだろうか? 数名の心無い連中が野次馬気分で火元へ向かった。 だが、多くの村人は冷静だった。予感が在ったのに違い無い。夜空を焦がす真っ赤な炎をジッ、と眺めて、佇んでいた。
消防の車が唸りを上げて、山岸の家へとひた走る。程なく火元へと駆け付けた。だが、彼等の其処に見たものは異様な姿の山岸だった。 火の付いた藁束を振り回し、奇声を上げて駆けずっている。燃え盛る我が家を目の前に異常なまでに狂喜していた。
「昇が狂った ・ ・ 」村人は遣り切れぬ想いで彼を見つめた。しかし、突風が火炎を煽り、真っ赤な火の粉を辺りに散らす。 「おい、まず、火だ!早く消せ!」団員達がホースを持って、燃え盛る炎に近付いた。
と、昇がその前に立ち塞がった。火の付いた藁束を振り回し、鎌を持って威嚇する。この儘、放置をして置くと何を始めるか 分から無かった。「おい、昇を抑えろ!」誰かが大声で呼び掛ける。数人の村人が呼応して山岸を囲んで威嚇した。
だが、昇は鎌を振り回し、恐ろしい形相で荒れ狂う。素手ではとても押さえ切れ無い。 「おい、ホースを持って来い!昇を縛るんだ!」誰かがまたしても指図した。村人が一斉にホースに群がる。
  だが、消防の団員は彼らを怒鳴った。「止めろ!穴でも開いたら消火が出来ない!」凄まじいその形相に村人は一瞬、気圧される。 ジリッと一歩、退いた。と、彼らの背後から罵声が飛んだ。「馬鹿野郎!おまえらの家だって、危ないんだぞ!」 村人の形相が一瞬、変わる。団員の手からホースを奪うと、じわじわと昇を取り囲み、ぐるぐる巻きにしてようやく捕らえた。

山岸の発狂は誰の目にも明らかである。彼は簡単な取り調べの後、県庁所在地の在る国立の精神病院へと移送をされた。 そして、担当医師と成る遠山四郎に引き合わされた。昇の傍らには、屈強な看護人が付き添っている。暴れた時の用心である。
だが、意外にも、面談中の昇は猫の子の様におとなしかった。陰湿な笑いは浮かべるものの、遠山の質問には素直に答える。 面談は三十分ほどですぐに終わった。昇の話はその殆どが支離滅裂で、取り留めが無く、彼の病状を露にしている。 その一部には、内容の分かる話も紛れていたが、極めて奇怪な話であった。
昇に拠ると、彼は地獄の悪鬼で在って、その背後には鬼女が居た。昇はその鬼女とのまぐわいにより、悪鬼に成った、と主張する。 看護人が思わず笑うと、その時に限り、ひどく怒った。だが、鬼女に付いては遠山の問いにも、ガンとしてその正体を明かさぬのである。 昇の狂気の中核は、どうやらその辺りに在りそうだった。

昇には、強迫観念にも似た感情も認められた。彼はあらゆる悪徳と言う悪徳を実行せねば為らぬのらしい。 それが悪鬼の義務であり、喜びでもある、と彼は言う。どうやら、悪鬼は彼に取っての神らしかった。 また、彼は何者かが自分の行動を邪魔している、とも述べている。これは明らかに、被害者意識や猜疑心の現れである。
カルテには精神分裂症、と記入が為された。そして、治療方針が決定されると、早速、神経遮断薬の投与が開始をされた。 病状は改善をするものと期待をされた。
だが、何処に間違いが在ったのだろうか? 遠山の予測はものの見事に外れて仕舞う。薬を変えても、量を変えても、 何の反応も現れぬ。極めて奇妙な現象だった。
  CTスキャンで見た彼の脳には萎縮などは見られ無かった。脳腫瘍も勿論、無い。 つまり、その脳は外見上、健康人と変わりは無かった。
そして、彼の症状には幻覚や妄想などが顕著に見られ、また、話し様は流暢ながら殆ど支離滅裂という、際だった特徴も見て取れる。 つまり、比較的、良化のし易い陽性型の分裂症と判断された。にも関わらず、その症状が重いとは言え、薬効の現れぬのは妙である。
昇の中で一体、何が起こって居るのか? 学術的な意味からも興味をそそられる症状である。昇は次第に研究対象と見なされ始めた。

 
だが、今の精神医学では、その解明は難しかった。昇の狂気の背後には、奥深い何者かが蠢いている。 問題は脳では無く、脳をかく至らしめた物質ならぬ物の存在だった。
狂気が露に成る以前の昇は、自ら発せられる憎悪の念に苦しんでいた。 あらゆる自らの欲望を極度に抑圧した為の、自らに対する反乱である。其処へ美穂が現れた。 昇と彼の憎悪の念を心の内に一体化をして、彼の葛藤を滅したのである。
だが、その美穂が忽然として姿を消した。昇の魂は蘇ったが、憎悪の念もその儘、残った。そして、以前の葛藤がぶり返された。 だが、一度、味わった平安は隠微とは言え、忘れ難い。彼はその苦しみに耐え切れず、狂気の中へと逃避した。 事の是非は別として、ともあれ平安は戻ったのである。
昇の頑固な病状もまさにその事が原因している。自らを狂気に貶め無ければ、彼の平安は在り得ない。 その揺り籠は彼に取っての、掛け替えの無い逃げ場所だった。遮断薬の効果が現れぬのも、そうした無意識の意志が働いて、 脳に作用をした結果であった。狂気を守る、という一念が遮断薬の効果を減殺したのである。
現在、人間の意志が自分の体内の如何なる活動にも、影響を及ぼし得る事が分かって来ている。その関わりはどうやら、 単に随意筋や脳の意識的活動だけでは無いのらしい。魂がそう意志すれば、体内の白血球なども増やせるし、 心臓を止める事すら可能らしい。
理屈は未だ分かって居ないが、どうやら意志には未知の力が存在していた。 昇が狂気に留まれたのも、まさにこの事が原因している。彼の病は心因性精神病の典型で在る、とも言えそうだった。

さて、そんなある日の事である。時刻は既に真夜中の二時、睡眠中の山岸に陰湿な声が呼び掛けた。恐ろしく低い声である。 現であるのか、幻なのか、昇は怖々、目を開けて、辺りの暗がりを見回した。
だが、妙である。猫の子、一匹、居はし無い。 「どうしたんだろう? 俺、気でも違ったのか?」昇は少し不安に成った。
が、次の瞬間、誰かがまたしても呼び掛ける。酷く陰湿には聞こえるものの、不思議とそれが懐かしい。心の安らぐ声でもあった。 「誰なのです?」昇は暗闇に目を凝らし、怖々ながら、問い掛けた。すると、その声が呼び掛ける。 「山岸よ、良く聞くのだ、私はおまえであり、おまえは私である! 時は到った、受け入れよ、おまえに私を入れるのだ!」
そう言えば、美穂はあの時、彼を悩ませる憎悪の念が実は昇だ、と言っていた。まさに今、その事が心から実感出来る。 昇は床に平伏して感極まって、述べ立てた。「ああ、長い間、お待ちした様にも思えます、やっと本当の悪鬼と成れるのですね? どうぞ、どうぞ、私へ、お入り下さい」そして、ギロッ、と白目を剥くと、陰湿な様子で笑うのだった。
  闇が不気味に振動している。怪しい影がやにわに現れ、唸りを上げて渦巻き始めた。渦は更に渦を呼び、怪しげな淵を覗かせている。 そして、渦の直中に黒い人型が一瞬、過ぎった。果たして如何なる姿であるのか! 昇は思わず見つめ直した。 と、その刹那、雷鳴のように闇が響いた。
「汝、見る無かれ、然も無くば、我は我、汝は汝と成るであろう!」余りの物凄さに昇は戦き、「お許し下さい!」と、 その場に伏した。と、どうだろう。渦巻く闇の淀みから真紅の筋がスーッ、と延びる。クネクネと蛇の様に宙を漂い、 怪しげな舞を舞うのであった。
昇は歓喜に戦きながら、ただただ身体を震わせている。そして、彼の頭上から絞り出す様なしわがれ声が陰湿な様子で響くのだった。 「我が恨み、今こそ巷に溢れ出ん! 此の世に災いをもたらす為なり!」と、真紅の筋が一瞬、しなり、鞭の様に宙を走った。 そして、何とした事か! 昇の頭部にドスッと刺さって、吸い込まれる様に消え失せた。昇は恍惚としてその場に倒れた。

かくして、昇の魂は自らの産んだ憎悪の念と一体化をして動き始めた。密やかな、彼すらも気の付かぬ変容である。 無論、遠山も気付いて居ない。症状の変化は見られたものの、分裂症には違い無かった。 だが、憎悪の念と一体化をした今、昇はある意味で、その病からは脱却していた。
外見上、分裂症状は示したが、実は精神は統一されて、分裂症からは救われたのである。 悪鬼と化した山岸は密かなゲームを楽しみ始めた。自らの症状をコントロールし、医師を惑わせては密かに楽しむ、 極めて陰湿な悪戯だった。昇に取って、右往左往をする医者の姿はいたく滑稽で面白い。彼は飽きるまで続ける事に決めたのだった。
  だが、その症状の変化は本当に彼のコントロールに拠ったのだろうか? 分裂症など治って居らず、彼の不安定な病状が時々刻々、 変わっただけなのかも知れぬのである。
いや、もしかすると、それは裏と表の、そんな関係にでも在るのだろうか? いずれにしても、その事で、 昇は妙な自信を付けたのらしい。症状のめまぐるしい変化は自分の力である、と信じたのである。

丁度その頃、遠山等はやっと有効と思われる幾つかの治療法を見出した。 彼等はそれらを組み合わせ、症状に応じて昇に試した。 そして、病状は徐々に回復へと向かい始めた。新療法は成功をしたかにも思われたのである。
  だが、その途上、思いも掛けぬ事態が起こった。山岸の体調が変わったのである。調べてみると自律神経の失調だった。 この新療法の臨床例は皆無と言っても過言ではない。注意は払って居たのだが、起こり得る事態では在ったのである。 医師達はすぐに投薬を中止して、事の成り行きを見守った。
あるいは、その処置が利いたのだろうか? 山岸は次第に回復へと向かい始めた。同じ失敗など許されぬ。 療法はより穏やかなものへと切り替えられた。そして、その問題点は解消をされたかにも見えたのである。
だが、事件は起こった。その二週間後、定時の見回りで、昇の部屋を点検した看護人が昏睡状態の彼を見付けたのである。 頭をベッドにでも打ったのらしく、かなりの血液が滴っている。看護人は急ぎ、遠山に連絡を取り、昇は治療室へと運ばれた。
だが、診察をすると、頭の打撲は思った程では無く、CTスキャンで調べた彼の脳にも異常な箇所など見当たらぬ。 自律神経も機能して居り、何の問題も見られない。なら、他の病でも在るのだろうか? だが、それは定期的に診察して居り、 気付かぬ事など在り得なかった。

山岸昇の症状は極めて深刻なものだった。瞳孔の反応は極めて鈍く、心臓の鼓動も不規則である。遠山は強心剤などを投与して、 急ぎ集中治療室へと移送した。今や昇は貴重な研究の対象でもある。死んで貰っては非常に困る。昇をベッドに寝かせると、 人工呼吸器をセットして、必要な処置を施した。計器を見ると呼吸も戻り、心拍数も戻りつつ在る。ひとまず、遠山は安堵した。
だが、種々の検査を全て行い、昏睡の原因を探るさなか、遠山は脳波計を見て愕然とした。明らかに山岸の脳は衰弱している。 「見落としたのか!」山岸は再度、CTに掛けられた。
だが、異常は見られぬ。脳の萎縮も脳腫瘍も、脳内出血も何も無い。脳の血流も正常だった。
ならば、何故、脳は衰弱をするのか? 遠山は酷い混乱へと陥った。 その間も脳波は急速に弱まって行く。「とにかく何とかしなくては!」遠山は考えられる全ての処置を試みた。
しかし、効果は現れぬ。脳の衰弱は止まらずに、やがては活動を停止した。
実にあっけのない最後である。 遠山は呆然として遺体を見つめた。山岸は何故、死んだのか? 想像すらも付かぬのである。
だが、今と成っては、するべき事をするしか無かった。山岸の脳は死んでいる。従って、山岸も死んでいた。 だが、人工呼吸器は依然として、山岸の心臓を動かして居り、肉体は未だ死んでは居ないのである。 死の認定にはそれなりの手続き、脳死の判定が必要だった。
  この病院では、その為の独自の基準が決められている。山岸の場合、その大方は既にクリアーされていた。 脳波は既に平坦であり、脳幹の反応も見られ無い。後の脳死の条件はこの状態の六時間の経過だけと成っていた。 それまでは山岸の死は確定されず、人工呼吸器も外せぬのである。
だが、時計を見ると、午後の八時。六時間後と言えば、明日の午前の二時である。警察や、その他の関係者への連絡も 考慮をせねば為らない。呼吸器の取り外しは明朝の十時以降、と決められた。

遠山は翌朝、何時もより早めに家を出て、病院へと足を急がせた。「山岸はまだ、生きて居るのでは無いのか?」 そんな気がして仕方が無い。「早く死に顔を見て安心したい」そんな心理も働いていた。
確かにあの時、山岸の脳波は平坦だった。脳の活動は停止していた。従って、脳は死んでいた。 少なくとも、彼の今までの認識からは山岸の死が導き出された。
だが、それは脳の情報伝達の単なる停止に過ぎぬのでは無いのか? 脳細胞その物の死とは限ら無い。
具体的事例に遭遇し、初めてその事に思い至った。六時間も停止が続けば脳の死は確定的とも思えるが、脳が溶けて仕舞わぬ限りは、 その事も怪しい様に思われる。脳は生きて居り、何かの切っ掛けで機能が戻る、その様な事は無いのだろうか? 遠山には、 在りそうな事にも思われた。
だが、手続き上、山岸の脳死は確定している。人工呼吸器は外さざるを得ぬのである。「これは殺人では無いのだろうか?」 遠山の気分は益々、滅入った。寺藤薬局の角を左に曲がると、 その先には、病院を囲う石垣が正門の石柱へと連なっている。遠山は何時もの様に其処を歩いた。 だが、妙である? 正門の辺りが騒がしい。人だかりが出来、遠巻きに中の様子を窺っている。 遠山はふっと足を止め、その有様を眺め見た。
と、その人だかりから、見慣れた顔が振り向いた。寺藤薬局の主人である。 彼は遠山を目にすると、早速、駆けて寄って来た。
  「あっ、遠山さん! 大変な事に成りましたね!」何時もは浅黒いその顔が異様に紅く上気をしている。 「エッ、どうしたんです? 何なんですか? この騒ぎは」遠山は訳が分からず、そう問うた。
寺藤が言った。「あっ、知ら無いんですか? 三井さんや安田さんが殺されたらしいんですよ! 他にも何人か ・ ・ 」 「エッ、何ですって?」と、寺藤が遠山の袖を引っ張って、塀の際へと誘った。そして、言った。 「遠山さん、どうやら、精神異常者の仕業らしいんですよ、大変ですよ? これは ・ ・ 」
だが、危険度の高い患者には細心の注意をもって対処している。「何、言ってるんだ、この男は!」怒りが芯から込み上げた。 だが、顔には出さずに、彼は正門の様子をふっと覗いた。
  其処にはロープが張って在り、その中には数台のパトカーも駐車をしている。 遠山は少し不安に成った。
だが、お調子者の寺藤の話だ。迂闊に信じると馬鹿を見る。「寺藤さん、余り軽弾みな事は ・ ・ 」 遠山はやんわりとそう釘を差し、正門へと向かって踵を返した。裏門から、とも思ったが、そんな自分も腹立たしい。 強引に野次馬を掻き分けて、ロープを持ち上げ、其処を潜った。

遠山が控え室に入ると、刑事が二人、遣って来た。聞きたい事が在る、と言う。何故かしら、山岸の死に顔が脳裏を過ぎる。 何を聞かれるのかも分からぬし、妙に気分も落ち着かぬ。取り合えず刑事を椅子に座らせて、彼等の問いに答えて行った。
刑事は簡単な質問から始めると、危険度の高い患者の特徴、管理方法、また、遠山の当日の行動に至るまで、 かなり詳しく聞いて来た。そして、その時、事件の概要も知らされたのである。寺藤の話は大袈裟どころか、その半分も語って居ない。 しかも、厳重注意を要する危険度の高い患者等が何処へ行ったのかも分からぬらしい。この事件は彼等の犯行とも考えられた。
だが、少し考えると、妙である。彼等の部屋は厳重な施錠が為されてあって、中からなどは開かぬのである。 ならば、其処には第三者による故意か過失かの何らかの要素が考えられる。鍵がどの様にして開けられたのか? 其処が問題と成ったのである。
(誤解を避ける為、言って置きますが、精神障害者の殆どは我々以上に安全な存在と言われて居ります)
だが、全ての鍵が同時に掛け忘れられた、とは考え難く、意図的に開けられた可能性が極めて高い。 つまり、内部犯行の線も考えられた。「だが、院内に、そんな異常者など居るのだろうか?」遠山は何時かしら疑心の森に迷い込み、 その暗闇に鬼を見ていた。

遠山が同僚に聞いた所では第一発見者は早出の看護人であったのらしい。病棟のドアを知らずに開けると、 血液の臭いが鼻を突き、廊下が血の海であった、と言う。人の気配は窺えず、不気味な静けさが漂っていた。 彼は他愛無くも気後れし、何の確認も取らぬ儘、隣の病棟へと助けを求めた。
病院に急行した警官達はその病棟の各部屋に、おびただしい血と死体とを見出した。 当直の医師、看護人や看護婦、そして、軽度の患者に到るまで、全てが無惨に切り刻まれて、其処此処に放置をされていた、と言う。 辺りには、真っ赤な血の池が出来て居り、切り取られた首や手や足が生け花の様に飾られていた。 地獄の絵図どころか、地獄そのものの光景だった。
 
 
特異民族    THINKING WORLD    停滞
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