神と成った恵比寿.


第十三章　第四話
	神と成った恵比寿

	恵比寿が登場の時を窺っていた丁度その頃、蘇我氏の権勢は他の追従を許さぬまでに高まり、主である筈の朝廷を欲しい儘に操っていた。だが、蘇我氏は何故、自らの精神的柱に仏教を据えたのだろうか？本来ならば、日本古来の神々がその位置には座るべきだった。事実、蘇我氏はその為に多くの敵を作ったのである。だが、それより少し前、祭と政の体制は物部氏など、古来の神々を奉る有力氏族に握られていた。新興の蘇我氏が彼等を凌ぐのには、旧来のその様な体勢に風穴を開ける事が必要である。仏教重用の背後には、その様な政治的意図も関わって居た。だが、それは意識に於ける原因である。その底流には無意識による動因が深く密かに蠢いていた。そして、その動因とは多くの氏族に共通の、神々の体系への冷めた心と秘めたる根深い反逆だった。蘇我氏の策謀の成功はその様な情勢の成さしめた、当然の帰結とも言えたのである。そして、この事は蘇我氏が帰化氏族と旧支配氏族と、その双方に関わる事をも暗示していた。（此処に言う旧支配氏族とは大和に国譲りをした先住氏族を指す）蘇我氏がいずれの系統から出たものなのか？野上は先住氏族の色が濃い、と考えたが、通説は帰化氏族の方へと傾いている。いずれにしても、それら氏族の不満を利用し、操った事に代わりは無かった。大和の神々の体系などは蘇我氏に取っては邪魔だったのである。いや、それは多くの氏族に共通の秘めたる心情でも在るのであった。無論、皇室を戴いた彼等としては、露骨な表明などし兼ねるのである。もし、その様な事を露わにしたなら、失脚の憂き目を見る事は日を見るよりも明らかだった。彼等の仏教への肩入れはその代償行為とも言えそうだった。既にその頃、仏教に異を唱えた物部氏は衰退していた。皇室の実権も失われつつある。政治の実権は蘇我氏が握り、政治は氏族の新たなる連合による集団的指導体制に依って行われていた。
	では、何故、皇室の実権が失われ、集団指導体制が産まれたのだろう？野上はまず新しい帰化氏族の存在に目を付けた。彼等は仏教との関わりが極めて深い。その分、大和の神々への想いは薄く、その事が相対的に皇室の権威を失墜させた。また、先住氏族の復古意識も関係した、と考えられる。いにしえの部族連合への郷愁である。その事が蘇我の氏族を保護者と成した、集団的指導体制を産んだのである。そして、おそらく、これらのもたらす状況は他の氏族の権益とも一致した。蘇我氏の力はその様なバランスの上に成り立っていた。時代は貴族政治へと向かい始めたかにも思われた。
	さて、蘇我氏がもし、先住氏族の末裔ならば、先住氏族にも、政治の中枢へ返り咲く、そのような可能性が残されていた。既に皇室には蘇我氏の血が色濃く流れ、皇位継承に付いても、影響力は絶大である。蘇我氏がその事を望んだならば、皇室そのものの奪取すら不可能な事では無いのであった。神話の根底に仏教を据え、変質をさせれば事は足りる。後は政治力だけの問題だった。皇位継承者が常に健在とは限ら無い。然も無くば、蘇我氏自らが手を下し、チャンスを作るだけだった。だが、蘇我馬子の子、蝦夷はそのようには動か無かった。同族である聖徳太子の一族に対抗意識を持つ余り、太子の子、山背大兄王を退け、田村皇子（後の舒明天皇）を押したのである。そして、聖徳太子の一族の追い落としまでをも謀って行った。蝦夷にはイデオロギーが欠落していた。蘇我氏は迷路へと迷い込み、奈落の淵へと歩んで行った。舒明天皇は馬子の娘を娶ったとは言え、山背大兄王に比べると、蘇我氏との関わりは薄かった。仏教の扱いにしても差が在って、求める体制にしても同様である。その事はすぐに天皇と蘇我氏との亀裂と成って表面化する。明らかに、蘇我氏は協力すべき相手を間違っていた。だが、それは権力を目指す者の宿命の様にも考えられる。血縁の濃いライバルこそが最も危険な存在だった。だが、蘇我氏のその様な行動は皇室の復権を密かに狙う、何者かの誘導であった、とも考えられる。蘇我氏同様、仏教を重んずる聖徳太子と、その一族もまた、その何者かに取っては邪魔だったのである。いずれにしても、蘇我氏の関わる一連の事件は皇室に漁夫の利を与えたのらしかった。さて、蝦夷の子、入鹿は意に染まぬ舒明天皇に対抗する為、自らの一族である古人皇子を太子に推した。古人皇子が太子に成れば、実際の政治は彼が行う。蘇我氏の意向も通り易い。実権は蘇我氏に戻る筈だった。だが、もう一人の実力者、山背大兄王が邪魔だった。入鹿は何と彼を暗殺して仕舞う。
		其処に至って、全ての邪魔者は沈黙し、恐怖政治の荒波が巷を覆うかにも思われた。だが、事はそう単純では無い。入鹿の計算は大きく外れた。丁度この頃、皇室と蘇我氏との確執は決定的なものにまで高まっていた。表面下では様々な策謀が交錯している。その中心には、舒明天皇の子で、その後継者とも目される中大兄皇子が居り、蘇我氏の追い落としを画策していた。其処に山背大兄王の暗殺である。天皇側の憎悪の念には、計り知れぬものが在っただろう。そして、此処に至ると、その心情はその他の氏族にも言えるのだった。恐怖政治では適わない。人々の心はまるで潮でも引くかの様に、蘇我氏の下から離れて行った。「動き出すのなら今しか無い！」中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)は兼ねてよりの計画を今する事に決めたのだった。そして、入鹿は暗殺された。
	蘇我氏の隆盛も終わったのである。天皇の復権は成し遂げられて、藤原氏の隆盛も約束された。だが、これは蘇我氏の失敗と言うよりは氏族連合への志向と言う、時代錯誤のもたらした必然的悲劇とも考えられる。中央集権の流れに竿を刺し、敗れ去ったのに違い無かった。それとも、イデオロギーを見失った精神的混迷にでも因るのだろうか？いずれにしても、時代が大きく動いた事は確かな事のようだった。これが大化改新のあらましである。だが、天皇を中心とする新勢力には未だ大きな不安が存在していた。何時また、蘇我氏の様な勢力が頭を擡げぬとも限らぬのである。それを未然に防ぐ為にも、大和政権の正当性を内外に知らしめ、その精神的拠り所を明確に示す事が必要だった。そして、その仕事は鎌足の子、不比等とその盟友、太氏一族によって成し遂げられる。古事記、日本書紀の編纂である。大和政権はその事で宗教的権威を取り戻し、政治的な正当性を確かな物へと高めたのである。かくして、記紀は各氏族の神々を天照大御神の下に置き、鉄壁なヒェラルキーを築いて行った。その神々の階層は概ね、各氏族のランク付けとも成っている。旧支配氏族は複雑な思いで、その書を見たのに違い無かった。其処には縄文の魂も欠落している。影の部分に追い遣られ、弱き者、服従すべき者として描かれていた。つまり、記紀は内的信仰心を満足させるものとは成り得なかった。そして、この心情は旧支配氏族のみ為らず、全ての氏族の心情でもある。自らの一族の貴重な神話が皇室の都合で変質させられ、氏族の誇りが奪われたのである。その故に、彼等の内的信仰心は新たなる拠り所を希求した。皇室の復権にも関わらず、仏教の普及が進んだ裏には、その様な事情も在るのであった。
	だが、記紀編纂の反作用はそればかりでも無さそうだった。いにしえの部族連合への回帰志向、つまり、縄文の神々への郷愁を厭が上にも掻き立てたのである。だが、大和の支配が盤石と成った今、その様な部族への回帰など、もはや現実的願望とは成り得ない。その故に、彼等はそれを精神的なものへと転化した。縄文の心の拠り所として、心の愛瀰詩を求めたのである。仏神融合が進んだ裏には、そのような事情も在ったのだった。
	「如何でしょう、こう考えて来ますと、恵比須の神の誕生も見えて来る様に思うのですが」野上はそう言い、一息、付いた。影浦が言った。「つまり、縄文の心を体現する神が必要だった、そして、内的恵比須が意識をされた？」野上が答えた。「エエ、都が平安京に移される頃には、雄々しく戦った過去を回顧する風潮も在ったのでは無いのでしょうか？」「うん、その心情が内的恵比須を呼び覚まし、祭る事と成った　・　・　」影浦がそう話を受けた。と、野上が深く頷いて、言った。「はい、そうです、そして、私はこの事に恵比須と言代主命との運命的な奇縁を感じるんです」恵比須の神は元を正せば、北九州の倭人達の意識から出たものであり、言代主命は愛瀰詩の代表として、祟らぬよう、大和が祭った神だった。違う神で在る事は明らかである。だが、その神々は同じ縄文の心が産んだ共通の根を持つ神々だった。恵比須は荒ぶる愛瀰詩のイメージが縄文の魂と結び付き、意識をされた神であり、また、一方の言代主命は愛瀰詩として自らの魂を守ろう、と、最後まで抵抗をした神だった。陰陽の違いは在るものの、その想念には相通ずるものが在りそうである。そして、その事は言代主の怨念が恵比須に伝わり、共振し得る事も暗示していた。野上の抱える大問題とは、まさにこの事に他ならなかった。野上は言った。「私が先生の本を読んだのは丁度、そんな時でした、私は大変な衝撃を覚えました、縄文の魂への抑圧は、まさに恵比須への抑圧でもあったからです」恵比寿は何時からか荒ぶる神では無く成っていた。縄文の魂を押さえられ、腑抜けにされて、福の神へと貶められた。余りにも無惨な変貌である。恵比須の魂は忘れられ、今や金欲や物欲だけが恵比須を祭る理由なのである。「恵比寿が祟りを為したとしても、少しの不思議も無いんです、ですが、私にはどうすれば良いのかが分かりません、為すべき事をお教え下さい！」
		だが、影浦は幾分、戸惑った。「自分のメッセージが伝わって居ないのでは無いのか？」そんな疑念も心を過ぎる。おそらくは理屈だけの解釈だった。だが、言代主は現実に祟り神と成って現れている。彼の疑問に答える為にはそうした事も言わねば為らない。しかし、その事を正直に告げるのは危険な様にも思われた。影浦には、三木に付いての苦い経験が焼き付いている。彼の精神の状態は日を増す毎に悪化して居り、そんな二の舞はさせたく無かった。影浦は魂の深みで考えるように、と彼を諭すと、引き取るように促した。後は彼自身の問題であり、立ち入るべきでは無かったのである。だが、野上は不満げに食い下がる。具体的な答えが欲しいのらしい。影浦は簡単なアドヴァイスを与えると、時間を理由に帰らせた。



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第十三章　第四話
	神と成った恵比寿

	恵比寿が登場の時を窺っていた丁度その頃、蘇我氏の権勢は他の追従を許さぬまでに高まり、主である筈の朝廷を欲しい儘に操っていた。だが、蘇我氏は何故、自らの精神的柱に仏教を据えたのだろうか？本来ならば、日本古来の神々がその位置には座るべきだった。事実、蘇我氏はその為に多くの敵を作ったのである。だが、それより少し前、祭と政の体制は物部氏など、古来の神々を奉る有力氏族に握られていた。新興の蘇我氏が彼等を凌ぐのには、旧来のその様な体勢に風穴を開ける事が必要である。仏教重用の背後には、その様な政治的意図も関わって居た。だが、それは意識に於ける原因である。その底流には無意識による動因が深く密かに蠢いていた。そして、その動因とは多くの氏族に共通の、神々の体系への冷めた心と秘めたる根深い反逆だった。蘇我氏の策謀の成功はその様な情勢の成さしめた、当然の帰結とも言えたのである。そして、この事は蘇我氏が帰化氏族と旧支配氏族と、その双方に関わる事をも暗示していた。（此処に言う旧支配氏族とは大和に国譲りをした先住氏族を指す）蘇我氏がいずれの系統から出たものなのか？野上は先住氏族の色が濃い、と考えたが、通説は帰化氏族の方へと傾いている。いずれにしても、それら氏族の不満を利用し、操った事に代わりは無かった。大和の神々の体系などは蘇我氏に取っては邪魔だったのである。いや、それは多くの氏族に共通の秘めたる心情でも在るのであった。無論、皇室を戴いた彼等としては、露骨な表明などし兼ねるのである。もし、その様な事を露わにしたなら、失脚の憂き目を見る事は日を見るよりも明らかだった。彼等の仏教への肩入れはその代償行為とも言えそうだった。既にその頃、仏教に異を唱えた物部氏は衰退していた。皇室の実権も失われつつある。政治の実権は蘇我氏が握り、政治は氏族の新たなる連合による集団的指導体制に依って行われていた。
	では、何故、皇室の実権が失われ、集団指導体制が産まれたのだろう？野上はまず新しい帰化氏族の存在に目を付けた。彼等は仏教との関わりが極めて深い。その分、大和の神々への想いは薄く、その事が相対的に皇室の権威を失墜させた。また、先住氏族の復古意識も関係した、と考えられる。いにしえの部族連合への郷愁である。その事が蘇我の氏族を保護者と成した、集団的指導体制を産んだのである。そして、おそらく、これらのもたらす状況は他の氏族の権益とも一致した。蘇我氏の力はその様なバランスの上に成り立っていた。時代は貴族政治へと向かい始めたかにも思われた。
	さて、蘇我氏がもし、先住氏族の末裔ならば、先住氏族にも、政治の中枢へ返り咲く、そのような可能性が残されていた。既に皇室には蘇我氏の血が色濃く流れ、皇位継承に付いても、影響力は絶大である。蘇我氏がその事を望んだならば、皇室そのものの奪取すら不可能な事では無いのであった。神話の根底に仏教を据え、変質をさせれば事は足りる。後は政治力だけの問題だった。皇位継承者が常に健在とは限ら無い。然も無くば、蘇我氏自らが手を下し、チャンスを作るだけだった。だが、蘇我馬子の子、蝦夷はそのようには動か無かった。同族である聖徳太子の一族に対抗意識を持つ余り、太子の子、山背大兄王を退け、田村皇子（後の舒明天皇）を押したのである。そして、聖徳太子の一族の追い落としまでをも謀って行った。蝦夷にはイデオロギーが欠落していた。蘇我氏は迷路へと迷い込み、奈落の淵へと歩んで行った。舒明天皇は馬子の娘を娶ったとは言え、山背大兄王に比べると、蘇我氏との関わりは薄かった。仏教の扱いにしても差が在って、求める体制にしても同様である。その事はすぐに天皇と蘇我氏との亀裂と成って表面化する。明らかに、蘇我氏は協力すべき相手を間違っていた。だが、それは権力を目指す者の宿命の様にも考えられる。血縁の濃いライバルこそが最も危険な存在だった。だが、蘇我氏のその様な行動は皇室の復権を密かに狙う、何者かの誘導であった、とも考えられる。蘇我氏同様、仏教を重んずる聖徳太子と、その一族もまた、その何者かに取っては邪魔だったのである。いずれにしても、蘇我氏の関わる一連の事件は皇室に漁夫の利を与えたのらしかった。さて、蝦夷の子、入鹿は意に染まぬ舒明天皇に対抗する為、自らの一族である古人皇子を太子に推した。古人皇子が太子に成れば、実際の政治は彼が行う。蘇我氏の意向も通り易い。実権は蘇我氏に戻る筈だった。だが、もう一人の実力者、山背大兄王が邪魔だった。入鹿は何と彼を暗殺して仕舞う。
		其処に至って、全ての邪魔者は沈黙し、恐怖政治の荒波が巷を覆うかにも思われた。だが、事はそう単純では無い。入鹿の計算は大きく外れた。丁度この頃、皇室と蘇我氏との確執は決定的なものにまで高まっていた。表面下では様々な策謀が交錯している。その中心には、舒明天皇の子で、その後継者とも目される中大兄皇子が居り、蘇我氏の追い落としを画策していた。其処に山背大兄王の暗殺である。天皇側の憎悪の念には、計り知れぬものが在っただろう。そして、此処に至ると、その心情はその他の氏族にも言えるのだった。恐怖政治では適わない。人々の心はまるで潮でも引くかの様に、蘇我氏の下から離れて行った。「動き出すのなら今しか無い！」中大兄皇子と中臣鎌足(後の藤原鎌足)は兼ねてよりの計画を今する事に決めたのだった。そして、入鹿は暗殺された。
	蘇我氏の隆盛も終わったのである。天皇の復権は成し遂げられて、藤原氏の隆盛も約束された。だが、これは蘇我氏の失敗と言うよりは氏族連合への志向と言う、時代錯誤のもたらした必然的悲劇とも考えられる。中央集権の流れに竿を刺し、敗れ去ったのに違い無かった。それとも、イデオロギーを見失った精神的混迷にでも因るのだろうか？いずれにしても、時代が大きく動いた事は確かな事のようだった。これが大化改新のあらましである。だが、天皇を中心とする新勢力には未だ大きな不安が存在していた。何時また、蘇我氏の様な勢力が頭を擡げぬとも限らぬのである。それを未然に防ぐ為にも、大和政権の正当性を内外に知らしめ、その精神的拠り所を明確に示す事が必要だった。そして、その仕事は鎌足の子、不比等とその盟友、太氏一族によって成し遂げられる。古事記、日本書紀の編纂である。大和政権はその事で宗教的権威を取り戻し、政治的な正当性を確かな物へと高めたのである。かくして、記紀は各氏族の神々を天照大御神の下に置き、鉄壁なヒェラルキーを築いて行った。その神々の階層は概ね、各氏族のランク付けとも成っている。旧支配氏族は複雑な思いで、その書を見たのに違い無かった。其処には縄文の魂も欠落している。影の部分に追い遣られ、弱き者、服従すべき者として描かれていた。つまり、記紀は内的信仰心を満足させるものとは成り得なかった。そして、この心情は旧支配氏族のみ為らず、全ての氏族の心情でもある。自らの一族の貴重な神話が皇室の都合で変質させられ、氏族の誇りが奪われたのである。その故に、彼等の内的信仰心は新たなる拠り所を希求した。皇室の復権にも関わらず、仏教の普及が進んだ裏には、その様な事情も在るのであった。
	だが、記紀編纂の反作用はそればかりでも無さそうだった。いにしえの部族連合への回帰志向、つまり、縄文の神々への郷愁を厭が上にも掻き立てたのである。だが、大和の支配が盤石と成った今、その様な部族への回帰など、もはや現実的願望とは成り得ない。その故に、彼等はそれを精神的なものへと転化した。縄文の心の拠り所として、心の愛瀰詩を求めたのである。仏神融合が進んだ裏には、そのような事情も在ったのだった。
	「如何でしょう、こう考えて来ますと、恵比須の神の誕生も見えて来る様に思うのですが」野上はそう言い、一息、付いた。影浦が言った。「つまり、縄文の心を体現する神が必要だった、そして、内的恵比須が意識をされた？」野上が答えた。「エエ、都が平安京に移される頃には、雄々しく戦った過去を回顧する風潮も在ったのでは無いのでしょうか？」「うん、その心情が内的恵比須を呼び覚まし、祭る事と成った　・　・　」影浦がそう話を受けた。と、野上が深く頷いて、言った。「はい、そうです、そして、私はこの事に恵比須と言代主命との運命的な奇縁を感じるんです」恵比須の神は元を正せば、北九州の倭人達の意識から出たものであり、言代主命は愛瀰詩の代表として、祟らぬよう、大和が祭った神だった。違う神で在る事は明らかである。だが、その神々は同じ縄文の心が産んだ共通の根を持つ神々だった。恵比須は荒ぶる愛瀰詩のイメージが縄文の魂と結び付き、意識をされた神であり、また、一方の言代主命は愛瀰詩として自らの魂を守ろう、と、最後まで抵抗をした神だった。陰陽の違いは在るものの、その想念には相通ずるものが在りそうである。そして、その事は言代主の怨念が恵比須に伝わり、共振し得る事も暗示していた。野上の抱える大問題とは、まさにこの事に他ならなかった。野上は言った。「私が先生の本を読んだのは丁度、そんな時でした、私は大変な衝撃を覚えました、縄文の魂への抑圧は、まさに恵比須への抑圧でもあったからです」恵比寿は何時からか荒ぶる神では無く成っていた。縄文の魂を押さえられ、腑抜けにされて、福の神へと貶められた。余りにも無惨な変貌である。恵比須の魂は忘れられ、今や金欲や物欲だけが恵比須を祭る理由なのである。「恵比寿が祟りを為したとしても、少しの不思議も無いんです、ですが、私にはどうすれば良いのかが分かりません、為すべき事をお教え下さい！」
		だが、影浦は幾分、戸惑った。「自分のメッセージが伝わって居ないのでは無いのか？」そんな疑念も心を過ぎる。おそらくは理屈だけの解釈だった。だが、言代主は現実に祟り神と成って現れている。彼の疑問に答える為にはそうした事も言わねば為らない。しかし、その事を正直に告げるのは危険な様にも思われた。影浦には、三木に付いての苦い経験が焼き付いている。彼の精神の状態は日を増す毎に悪化して居り、そんな二の舞はさせたく無かった。影浦は魂の深みで考えるように、と彼を諭すと、引き取るように促した。後は彼自身の問題であり、立ち入るべきでは無かったのである。だが、野上は不満げに食い下がる。具体的な答えが欲しいのらしい。影浦は簡単なアドヴァイスを与えると、時間を理由に帰らせた。



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