回帰.


第一八章　第二話　　　　　　　　　回帰

	「何故、自分には、それが見えぬのか？」その意識体は模索した。だが、思索は何時も空回りをし、その糸口すらも見えては来ない。辺りに向かって問うては見るが、その問いはこだまと成って虚しく響いた。「ひとりで考えるしか無いのだろうか？」彼は自問を繰り返し、ついには疲れ果て、寝入って仕舞った。だが、その無から突如、何かが揺らぎ始めた。得体の知れぬ泡である。無の直中を漂いながら、徐々に大きく膨らみ始めた。そして、やがては想念を為し、混沌とした儘、蠢き始めた。すると、自我が現れた。時間と空間とが認識されて、自我は夢を見る主体と成った。夢の中は薄暗く、空気の淀みが重苦しい。色彩は無く、煤けた様に煙って見えた。辺りには、多くの人間が蠢いている。陰鬱な靄が彼等を覆って、影法師の様にぼやけて見えた。群を為し、皆、同じ方向へと移動をしている。薄暗さの故、表情も定かでは無かったが、生気の失われつつある事は朧気ながら窺い知れた。彼等を包む靄の周囲は暗黒の霧に閉ざされている。過去から未来への道筋が微かに見えるだけだった。果て無く続くトンネルである。彼等は其処を黙々と前へと向かって前進していた。「けど、一緒に歩いていて、良いのだろか？」彼はふっと自問した。この道筋を脇に反れ、暗黒の霧に立ち入ったなら、別の世界への抜け道が見えて来る様にも思うのである。彼は一瞬、立ち止まり、飛び込もうか、とも考えた。しかし、怖くて踏み切れぬ。一歩でも其処へ立ち入ったなら、縋るべき何ものも存在をせぬ虚無の世界が待ち受けて居るのかも知れぬのである。暗黒の霧の印象が立ち入る事を許さ無かった。だが、彼の意識は混濁し、自らの自問にすら気付いていない。陰鬱で暗いトンネルをただ黙々と歩き続けた。
		人の群は列を成し、幾重にも蛇行を繰り返し、無限の彼方にまで連なっている。トンネルのカーブを回り込み、見えぬ筈の群衆が何故か彼には見通せた。暗黒の霧へと立ち入る者はただの一人も見当たらず、皆、揃って俯き加減に、ただ黙々と歩みを進める。何者かに操られてでも居るのだろうか？心を悪魔に奪われた亡霊の様にも思われた。だが、彼の意識は混濁し、そんな印象にも気付いていない。ただ歩く事、それが彼の全てであった。彼は群衆に埋没し、何も考えずに歩き続けた。だが、足の重さは気に掛かる。疲れだろうか？それとも、急ぐ事への躊躇だろうか？気の急く程に足が縺れた。
	後ろを歩く群衆が次々と彼を追い越し始める。焦りが募り、不安が過ぎった。「とにかく、早く歩かねば」彼は重い足を引きずった。しばしば前を窺うが、何時も同じ光景である。出口の明かりは未だに見えず、群衆の列の先頭も、やはり定かには分から無かった。陰鬱な靄が視界を遮り、無言で彼を威圧している。「此処は一体、何処なのだろう？」脳裏にふっと疑問が過ぎった。群衆の想いも気に掛かる。彼は辺りを見回した。だが、彼等には、さほどの迷いは感じられない。脇目も振らずに黙々と、前へと向かって前進していた。行き着く先や目的を知って居るのに違い無い。「あのう、もし　・　・　此の列は何処まで続くのでしょう？」彼は怖々、声を掛け、傍らの影法師に聞いてみた。だが、返事など無い。無表情な顔の儘、一瞥もくれずに過ぎ去った。他の連中にも目を遣るが、まるで彼など無いかの様に次々と脇をすり抜ける。心にポッカリと穴が開き、空虚な風が吹き抜けた。「彼等と自分とは違うのだろうか？」そんな想いが脳裏を過ぎる。すると、やにわに世界が変わって、全てが他者として意識をされた。と、それは、何と陰鬱なる世界であろうか！彼は戸惑い、そして、恐れた。見ると、居並ぶ群衆は彼に似ながら、全てが非なるものである。何故か曖昧として、忌まわしい。「此処は自分の居場所では無い！」彼の心がそう言った。もはや、一緒には歩め無い。行くべき場所は何処か他に在る筈だった。
	だが、何処へ歩めば良いのだろうか？僅かな指標すら見えぬのである。「初めから、行き先などは無いのだろうか？」だが、本当にそうであるのるなら、歩く必要など無さそうだった。「自分が群衆と歩いて来たのは、果たして何の為だったのか？」やはり目的は在る筈だった。群衆に付いて歩く内、何時しか流れに埋没し、失念をしたのに違い無い。「だが、その行く先は何処であるのか？」しかし、意識は混濁し、記憶も靄に押し包まれて、雲の様に曖昧である。彼は止む無く手探りで記憶の靄へと分け入った。
	だが、やっと見付けた微かな記憶はほんの僅かなかけらのみ。拾い集めて、合わせてみるが、何も分かりはしなかった。未来ばかりか、過去、現在、そして、自分自身もが記憶の断片と成り、曖昧である。いや、それが果たして自分で在るのか、それすら、はっきりとは分からぬのである。「これは、どうした事なのか！」彼は一瞬、唖然とし、後ろの群衆を振り向いた。と、何故だろう？後ろを歩く群衆が妙な具合にぼやけて見える。見る間にそれは色あせて、セピア色へと変わり始めた。暗黒の霧のトンネルがさらさらと崩れ、崩壊している。流砂の様に辺りを覆って、群衆達を飲み込み始めた。
		元、来た道を必死で探すが、痕跡すらも残って居ない。全てが霧に覆い尽くされ、虚無の予感が彼を捕らえた。心細さと寂しさが針の様に心を苛む。彼は咄嗟に振り向いて、未来への道を窺った。だが、既に群衆は掻き消えて、行くべき道も失われている。気が付くと、彼は漆黒の暗闇で、無の直中を漂っていた。触れる物は何も無く、空気の動きすら感じ取られぬ。踏みしめる大地も既に無く、彼自らの肉体も何時の間にか消失していた。意識は他者を欲するが、感覚すらも消失している。孤独と不安とが闇を深めて、心を更に虚しくさせた。がらんどうの心の中で、氷のかけらがカラン、と鳴った。
	朝だった。此の処、毎日の様に夢に魘され、どういう訳か、寝付かれぬ。影浦は何時もの様に首を捻った。仕事の進まぬ苛立ちだろうか？しかし、解らぬ。影浦は重い身体をむっくり起こすと、傍らの鞄に目を遣った。この昼、羽田で三木と落ち合い、島根に飛ぶ事に成っている。つい、この間、見付かった古墳を我が目で確かめる為だった。言代主命に関わるらしい。「夢の事は暇な時にでも考えよう　・　・　」彼は急いでベットを出ると、枕元の聖書を書棚に仕舞った。人は時として、この世の世界とも思われぬ怪しげな世界を垣間見る。だが、多くの人は幻夢と見なし、記憶の淵へと沈めてしまう。あるいは、それが生きている一つの証明でもあるのだろうか？怪しげな世界に踏み込んだなら、自らの悪魔にも出会い兼ね無い。それよりは、生物の論理に素直に従い、物理世界を生き抜く方が無難であるようにも思われた。だが、それは本当にそうであろうか？お仕着せの認識で良いのだろうか？今、宇宙は生物なる物を此の世に産み出し、意識の窓が開かれ始めた。物理世界に向かうが如く、それは精神世界へも向かうのである。
	その行く手には、神々と宇宙の混迷が、恐ろしい悪魔として立ちはだかるが、其処を越えた所には、それらの混迷を止揚する何等かの救いも予感をされた。彼には未だ見えぬのらしいが、魂の声を素直に聞くなら、ひょっとして、それは鮮やかに見えるだった。だが、その担い手は、おそらく神では在り得なかった。　　　　おわり




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第一八章　第二話　　　　　　　　　回帰

	「何故、自分には、それが見えぬのか？」その意識体は模索した。だが、思索は何時も空回りをし、その糸口すらも見えては来ない。辺りに向かって問うては見るが、その問いはこだまと成って虚しく響いた。「ひとりで考えるしか無いのだろうか？」彼は自問を繰り返し、ついには疲れ果て、寝入って仕舞った。だが、その無から突如、何かが揺らぎ始めた。得体の知れぬ泡である。無の直中を漂いながら、徐々に大きく膨らみ始めた。そして、やがては想念を為し、混沌とした儘、蠢き始めた。すると、自我が現れた。時間と空間とが認識されて、自我は夢を見る主体と成った。夢の中は薄暗く、空気の淀みが重苦しい。色彩は無く、煤けた様に煙って見えた。辺りには、多くの人間が蠢いている。陰鬱な靄が彼等を覆って、影法師の様にぼやけて見えた。群を為し、皆、同じ方向へと移動をしている。薄暗さの故、表情も定かでは無かったが、生気の失われつつある事は朧気ながら窺い知れた。彼等を包む靄の周囲は暗黒の霧に閉ざされている。過去から未来への道筋が微かに見えるだけだった。果て無く続くトンネルである。彼等は其処を黙々と前へと向かって前進していた。「けど、一緒に歩いていて、良いのだろか？」彼はふっと自問した。この道筋を脇に反れ、暗黒の霧に立ち入ったなら、別の世界への抜け道が見えて来る様にも思うのである。彼は一瞬、立ち止まり、飛び込もうか、とも考えた。しかし、怖くて踏み切れぬ。一歩でも其処へ立ち入ったなら、縋るべき何ものも存在をせぬ虚無の世界が待ち受けて居るのかも知れぬのである。暗黒の霧の印象が立ち入る事を許さ無かった。だが、彼の意識は混濁し、自らの自問にすら気付いていない。陰鬱で暗いトンネルをただ黙々と歩き続けた。
		人の群は列を成し、幾重にも蛇行を繰り返し、無限の彼方にまで連なっている。トンネルのカーブを回り込み、見えぬ筈の群衆が何故か彼には見通せた。暗黒の霧へと立ち入る者はただの一人も見当たらず、皆、揃って俯き加減に、ただ黙々と歩みを進める。何者かに操られてでも居るのだろうか？心を悪魔に奪われた亡霊の様にも思われた。だが、彼の意識は混濁し、そんな印象にも気付いていない。ただ歩く事、それが彼の全てであった。彼は群衆に埋没し、何も考えずに歩き続けた。だが、足の重さは気に掛かる。疲れだろうか？それとも、急ぐ事への躊躇だろうか？気の急く程に足が縺れた。
	後ろを歩く群衆が次々と彼を追い越し始める。焦りが募り、不安が過ぎった。「とにかく、早く歩かねば」彼は重い足を引きずった。しばしば前を窺うが、何時も同じ光景である。出口の明かりは未だに見えず、群衆の列の先頭も、やはり定かには分から無かった。陰鬱な靄が視界を遮り、無言で彼を威圧している。「此処は一体、何処なのだろう？」脳裏にふっと疑問が過ぎった。群衆の想いも気に掛かる。彼は辺りを見回した。だが、彼等には、さほどの迷いは感じられない。脇目も振らずに黙々と、前へと向かって前進していた。行き着く先や目的を知って居るのに違い無い。「あのう、もし　・　・　此の列は何処まで続くのでしょう？」彼は怖々、声を掛け、傍らの影法師に聞いてみた。だが、返事など無い。無表情な顔の儘、一瞥もくれずに過ぎ去った。他の連中にも目を遣るが、まるで彼など無いかの様に次々と脇をすり抜ける。心にポッカリと穴が開き、空虚な風が吹き抜けた。「彼等と自分とは違うのだろうか？」そんな想いが脳裏を過ぎる。すると、やにわに世界が変わって、全てが他者として意識をされた。と、それは、何と陰鬱なる世界であろうか！彼は戸惑い、そして、恐れた。見ると、居並ぶ群衆は彼に似ながら、全てが非なるものである。何故か曖昧として、忌まわしい。「此処は自分の居場所では無い！」彼の心がそう言った。もはや、一緒には歩め無い。行くべき場所は何処か他に在る筈だった。
	だが、何処へ歩めば良いのだろうか？僅かな指標すら見えぬのである。「初めから、行き先などは無いのだろうか？」だが、本当にそうであるのるなら、歩く必要など無さそうだった。「自分が群衆と歩いて来たのは、果たして何の為だったのか？」やはり目的は在る筈だった。群衆に付いて歩く内、何時しか流れに埋没し、失念をしたのに違い無い。「だが、その行く先は何処であるのか？」しかし、意識は混濁し、記憶も靄に押し包まれて、雲の様に曖昧である。彼は止む無く手探りで記憶の靄へと分け入った。
	だが、やっと見付けた微かな記憶はほんの僅かなかけらのみ。拾い集めて、合わせてみるが、何も分かりはしなかった。未来ばかりか、過去、現在、そして、自分自身もが記憶の断片と成り、曖昧である。いや、それが果たして自分で在るのか、それすら、はっきりとは分からぬのである。「これは、どうした事なのか！」彼は一瞬、唖然とし、後ろの群衆を振り向いた。と、何故だろう？後ろを歩く群衆が妙な具合にぼやけて見える。見る間にそれは色あせて、セピア色へと変わり始めた。暗黒の霧のトンネルがさらさらと崩れ、崩壊している。流砂の様に辺りを覆って、群衆達を飲み込み始めた。
		元、来た道を必死で探すが、痕跡すらも残って居ない。全てが霧に覆い尽くされ、虚無の予感が彼を捕らえた。心細さと寂しさが針の様に心を苛む。彼は咄嗟に振り向いて、未来への道を窺った。だが、既に群衆は掻き消えて、行くべき道も失われている。気が付くと、彼は漆黒の暗闇で、無の直中を漂っていた。触れる物は何も無く、空気の動きすら感じ取られぬ。踏みしめる大地も既に無く、彼自らの肉体も何時の間にか消失していた。意識は他者を欲するが、感覚すらも消失している。孤独と不安とが闇を深めて、心を更に虚しくさせた。がらんどうの心の中で、氷のかけらがカラン、と鳴った。
	朝だった。此の処、毎日の様に夢に魘され、どういう訳か、寝付かれぬ。影浦は何時もの様に首を捻った。仕事の進まぬ苛立ちだろうか？しかし、解らぬ。影浦は重い身体をむっくり起こすと、傍らの鞄に目を遣った。この昼、羽田で三木と落ち合い、島根に飛ぶ事に成っている。つい、この間、見付かった古墳を我が目で確かめる為だった。言代主命に関わるらしい。「夢の事は暇な時にでも考えよう　・　・　」彼は急いでベットを出ると、枕元の聖書を書棚に仕舞った。人は時として、この世の世界とも思われぬ怪しげな世界を垣間見る。だが、多くの人は幻夢と見なし、記憶の淵へと沈めてしまう。あるいは、それが生きている一つの証明でもあるのだろうか？怪しげな世界に踏み込んだなら、自らの悪魔にも出会い兼ね無い。それよりは、生物の論理に素直に従い、物理世界を生き抜く方が無難であるようにも思われた。だが、それは本当にそうであろうか？お仕着せの認識で良いのだろうか？今、宇宙は生物なる物を此の世に産み出し、意識の窓が開かれ始めた。物理世界に向かうが如く、それは精神世界へも向かうのである。
	その行く手には、神々と宇宙の混迷が、恐ろしい悪魔として立ちはだかるが、其処を越えた所には、それらの混迷を止揚する何等かの救いも予感をされた。彼には未だ見えぬのらしいが、魂の声を素直に聞くなら、ひょっとして、それは鮮やかに見えるだった。だが、その担い手は、おそらく神では在り得なかった。　　　　おわり




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