可能世界・陰の神話 第五章第一話		悪しき予感 This was revised in December 1, 2006 This was revised in August 31, 2008.		野口博正の提供による 　あるひとつの可能世界
	駿河湾の漁師、海淵老人は自宅からほど近い裏山の道を、海沿いの崖の方へと歩いていた。その崖の中腹には、稲荷の祠が鎮座している。今、行く獣道の様な細道は其処への参道と成っていた。実を言えば、今日は朝から、彼の孫、康夫の事が気に成って、妙に気分が落ち着か無い。「お稲荷様にでも、相談しようか？」彼はふと、そう考えて、祠へと足を向けたのだった。二週間ほど前、康夫から、珍しく、電話があった。社員教育の一環として、催眠術を施されている、と言う。新しいオーナーの方針で、心理面の強化を図る、と言う事らしいが、康夫はそれを嫌がっていた。「胡散臭くて、気味が悪い、止めたいよ」などと、不満げである。 確かに、小さな会社の社員教育としては、少し妙には思われた。 だが、話を聞くと、オーナーが変わっただけで、仕事の内容には変化が無い、と言う。老人はそれを聞いて、ひとまずは、安堵の胸を撫で下ろした。最近は、寺などで、坐禅をさせる会社もあるらしい。軍隊式の訓練をする所もある、と聞く。なら、催眠術を取り入れる会社があるとしても、そう不思議では無い、のかも知れない。老人は差し当たり、「そんなもん、気の持ち様で、どうにでも成るだよ」と、康夫を諭した。両親に早く死なれて、老人に育てられた康夫には、昔から、わがままな所が目に付いた。そして、そろそろ、会社や仕事にも慣れて、世間を知ったつもりに成る時期でもあるから、会社への不満を口にするのも、自然の流れであるのかも知れない。「まあ、わがままの虫がまた、湧いた、と言う事だろう」老人はその程度の問題にしか考えなかった。だが、言い知れぬ不安も頭を掠める。「上手く遣ってくれれば良いのだが」折に触れて、老人はそう呟いていた。だが、あれ以来、康夫からは、何の連絡もして来ない。電話しようか、とも考えるのだけれども、煩がられるので、掛け難かった。「電話くらい、くれりゃ良いのに」老人はぶつぶつと一人、呟きながら、緩い坂道を登って行った。 老人は雑木林を抜け切ると、そこで一息、息を入れて、切り立った崖を仰ぎ見た。其処からは、急な勾配の石段が葛折と成って、上へと続く。祠はその途切れる辺り、海の臨める高台に鎮座していた。顔を上げると、西に傾いた太陽が切り立った崖の岩肌を鮮やかな朱の色に染めている。老人は眩しそうに目を細めながら、一歩、一歩、と登って行った。ふと見ると、今し方、通ったばかりの雑木林に崖の影がくねくねと横に長く伸びている。それは何時もの、日の傾きを知らしめる黄昏色の風景だった。ふっと、右手に目を振ると、真っ青な海が広がっている。朱色に染まった波頭が逆巻く様に浜辺へと打ち寄せると、砕け散っては引いていた。老人はふと、足を止めると、そのパノラマをじっと眺めた。息も少し切れている。彼は足下の石段に腰を据えると、刻み煙草を腰の脇から取り出した。そして、目を細めながら一服、付けた。紫煙がゆらゆらと立ち昇ると、しばらく辺りに漂って、夕焼けの空へと溶け込んで行く。時がゆっくりと過ぎて行く、心の和むひとときだった。だが、紫煙が消えると、康夫の事が想い出される。「おお、こうしては居られない、日の暮れる前に、済ませ無くては」老人はゆっくりと腰を上げると、狭い石段を歩み始めた。 少し登ると、其処は断崖の中腹である。傾斜は幾分、なだらかと成って、石段は灌木の林へと入って行った。奥の方には、粗末な鳥居が連なって居る。灌木と共にアーチを作って、木漏れ日が石段に所々、影を落とした。老人はその木漏れ日の揺らめきを楽しみながら、ゆっくりと石段を登って行った。祠の屋根が僅かに見える。木々を縫って射し込む光が夕焼け色に祠を照らした。「お稲荷様、良いお日和です」老人の顔に笑みがこぼれた。そして、祠の側に歩み寄ると、菓子を供えて、両手を併せた。だが、妙である。稲荷の顔が何故か、厳しい。「気の所為だろうか？」老人は怪訝な面もちで、稲荷の顔を覗き見た。 と、その時、一陣の風がやにわに吹いた。雑木林がざわざわと、呻く様に一瞬、ざわめく。老人は突然、眩暈に襲われて、祠の前に手を付いた。気が付くと、辺りは闇に包まれている。そして、闇のただ中に、康夫の顔が浮かび上がった。顔の色は青白く、頬は異様に痩せている。何か物を言いたげに、老人をじっと凝視していた。だが、それは本当に康夫だろうか？余りにも無残な変貌である。老人は目を見開いて、凝視した。と、やにわに辺りに光が満ちて、康夫の顔が掻き消えた。夕日に照らされて朱を帯びた、何時もの祠が在るだけである。「こ、これは！？」老人は唖然として、稲荷の祠をじっと、見つめた。「だが、あれは一体、何だったのか？気の迷いなのか？夢なのか？」老人はその時、絞り出す様な悲痛な声を聞いた様にも感じたのである。「何か、良からぬ事でも在ったのだろうか？」言い知れぬ不安が込み上げた。 老人は家に戻ると、すぐに康夫の会社に電話を入れた。だが、呼び出し音が虚しく響く。「おっかしいな、何時もなら、まだ仕事中の筈だが、家かな？それにしても、誰も出ないなんて？」だが、考えていても埒があかない。老人はすぐさま、受話器を持ち直すと、康夫のアパートへと電話を入れた。だが、康夫は出ない。「まだ、戻っては居ないんだ」老人は少し時間を置くと、再び電話を入れてみた。しかしながら、応答は無い。「そうか、会社ぐるみで出掛けてるんだ、社員旅行かな？連絡くらい、くれりゃあ良いのに」老人はそう都合良く自分を納得させた。だが、納得し切れぬ。老人は落ち着かぬまま、寝床に潜った。 雨雲が垂れ込めている薄暗い河原を老人は一人、彷徨っていた。辺りには、顔を失った亡霊達が闇から現れては消えて行く。「もしや、その中の誰かが康夫では無いのか！」老人の目はその消え行く姿を必死で追った。だが、視界は利かない。辺りに漂う陰鬱な靄がしばしば、濃密に広がって、光を遮るからだった。ふと、気が付くと、川の流れる音がする。そして、小石の転がる音がした。「そうか、此処は賽の河原だ！もしや、さっき転がったのは康夫の積んだ石ではないのか？」老人は咄嗟に辺りを見回すと、悲痛な声で康夫を呼んだ。だが、返事など無い。顔の無い亡霊が現れて、老人の声をスウーと、擦り抜けると、闇へと消え入るだけである。「もう、康夫は居ないんだ」老人はそう納得をすると、元来た道を歩み始めた。 と、背後から、弱々しい声が呼び掛ける。「康夫か？」老人は半信半疑で振り向いた。と、陰鬱な靄の直中に、ひとつの顔が浮き出している。頬はげっそりと削げ落ちて、顔色は死人の様に青かった。だが、老人には、康夫である、と、すぐに分かった。悲しそうで、不安げ眼が何か物を言いたげである。「康夫、何が在ったんだ？何がそんなに悲しいんだ？」老人は慰める様に、そう言った。すると、康夫がか細く言った。「元に、戻して・・元に戻して」だが、元に戻して、とは、どういう意味か？「えっ、何を戻すんだ？どうすれば良いんだ？」老人は必死に成って、呼び掛けた。だが、返事など無い。老人が思わず、前へと踏み出すと、闇に浮かんだ康夫の顔がまるで何かに引かれる様に、スーッと、老人から、退いた。そして、河原の上を浮遊して、川を渡ると、対岸まで行って、闇へと消えた。「やすおーっ！」と、老人が呼び掛ける。しかし、その声は虚空に響いて、むなしく帰るだけだった。 老人は自分の声で目が覚めた。枕元の時計を見ると、既に真夜中の二時である。老人は上半身を起こして、考え込んだ。最前に見た不気味な夢が不安な想いを抱かせる。「正夢だろうか？いや、ただの夢に決まってる、けど、元に戻して、とは何だろう？」考えるほどに心が揺れる。「もう一度、電話しようか？」とも、思うけれども、何故か怖くて、掛けられない。そして、悪い事など想いたく無い。老人は布団の中で、鬱々とした。そして、知らぬ間に寝入って仕舞った。 老人は翌朝、電話の音で目が覚めた。昨夜の夢が、そして、祠での幻影が、一挙に脳裏を駆け巡る。「康夫からなのに違い無い！」老人は咄嗟に布団を払い除けると、急いで受話器を取り上げた。だが、それは康夫では無く、康夫をサンツーリストに世話してくれた、魚問屋の境田である。「あ、海淵さん、実は大変な事に成ってるんです」声が妙に重苦しい。「あ、あの、康夫の事かね？」「はい、けど、落ち着いて聞いて下さいよ？」境田はそう前置きをすると、小さな声で話し始めた。康夫の行方が分からぬのだ、と言う。しかも、会社ぐるみ、社員や社長の行方まで、不明と成って居るのらしい。既に、家族間では連絡も取られて、警察への届け出も済んでいる、と言う。「どうして、早く、知らせてくれ無かったんだね！」老人は思わず、声を荒げた。
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