可能世界・陰の神話 第九章第二話		背中合わせの魔界 This was revised in December 3, 2006. This was revised in September 13, 2008.		野口博正の提供による 　あるひとつの可能世界
	坂崎は一通りの自己紹介をし終えると、影浦から目線を外して、傍らに正座をする二十四、五の娘に視線を送った。どうやら、「君の番だよ？」と、言う事らしい。だが、娘は影浦をちらっ、と見ると、目線を外して、何故か、下を向いてしまった。少し赤らんで、モジモジと、畳を見つめるだけである。話をしようという気はありそうなのだが、どうも、そうする事を怖がっている。引っ込み思案な性格なのか？それとも、何か、他の問題でも、抱えているのか？そう言えば、押知も坂崎も最前から、時折、彼女をいたわる様な仕草を見せた。影浦は彼らがこの道場に着いた時から、その様子と、娘の所在なさそうに下を向いている様子が幾分、気に成っていたのである。娘は白のブラウスと紺のスカート姿で、アクセサリーなどは付けてはおらず、極めて質素な印象である。しかしながら、その物腰からは、育ちの良さが窺えた。しかしながら、何処とは無しに弱々しく、不安げでもある。そして、影浦は彼女の顔に、心に問題のある人間に特有のむくみが僅かながら、ある事にも気が付いた。どの様な事情があるのかは知らないけれども、彼女には、慎重な対応が必要らしい。「まあ、そんなに緊張しないで、気楽にして下さい？」影浦はそう彼女に声を掛けると、にこやかな顔で、彼女を見つめた。と、娘が少しはにかんで、肩をすぼめる。そして、幾分、おずおずと、自分の生い立ちを語り始めた。 彼女は名を野辺地京子と言い、青森の旧家に第一子として生を受けた。両親が結婚をしてから六年目、ようやく、恵まれた子宝である。そして、第二子はなかなか作れず、両親の穏やかな愛情は京子の一身へと注がれた。だが、甘やかす事は決して無く、道理を諭して、育てたのである。その所為だろうか？あるいは、持って生まれた素質だろうか？一人っ子に特有の問題も表立っては現れず、彼女は極めて穏やかな素直な子として育ったのである。そして、両親も、そんな彼女の成長を信頼を以て、見守った。だが、彼等には、たった、ひとつだけ悩みが在った。家を継ぐべき男子がどうしても、出来ないのである。いきおい、両親の期待は京子に向かった。「医者か弁護士を養子に迎えて、その者に跡を継がせよう」彼等はそう考え始めた。そして、京子にも、事ある毎に、そう言って、家を守る事の大事さを諭したのである。格式を重んずる旧家であるから、親類縁者も近所の人々も、折に触れて、その様に言う。京子は幼い頃から、その様な環境の下で、育った所為か、何の疑問も差し挟まずに、そうするものだ、と受け止めていた。もはや、京子には、他の選択肢は夢想でしかなかったのである。あるいは、彼女はその様な夢想すら、しなかったのかも知れない。彼女にとって、親の考えが彼女の全てであったからである。いずれにしても、両親は彼女の素直な態度に満足していた。 京子は地元の大学を卒業すると、父の勧めで、青森の役所に就職をした。所内の評判も極めて良い。二、三年もすれば養子も決まって、野辺地家と京子の行く末も安泰と成る、かにも思われた。だが、何処に間違いが在ったのだろうか？見えざる何かが忍び寄り、彼等の運命を狂わせ始めた。そして、当初、それは京子の不可解な行動と成って現れた。彼女はある日、突然、上司に辞表を提出して、そのまま、家へと戻ったのである。母親にすら、何の相談もして居ない。父親が役所の知人から聞かされて、初めて知った有様だった。 知人に拠れば、辞表は押さえてある、と言う。何かのへまでもしたのだろうか？だが、仕事上の問題などは皆無であり、人間の関係も良好であった、と言う。両親は京子に理由を問うて、叱ったり、宥めたりして、その説得に躍起と成った。だが、彼女はただ、俯くばかりで、耳を貸さない。理由すら話そう、とはしないのである。両親は予想外の反応に、当惑して、「何故、辞めるのか！」と、京子を責めた。だが、京子は答える事が出来なかった。実を言えば、彼女自身、辞める理由など、分から無かったのである。「とにかく、辞めたい！」強いて、説明をするならば、その様な強い衝動に屈してしまった、と言うしかないのである。無論、その様な説明では、誰も納得など、しないだろう。京子は結局、無言で、通した。そして、再三の説得にも関わらず、役所を辞めた。京子としても、自分の行為が問題なのは承知している。酷く惨めで、後ろめたい。無論、両親の話も理解は出来た。「なのに、自分は止めて仕舞った、何故なのか？」彼女は鬱々として、考え続けた。一つでも良い。まともな言い訳を探し当てて、分かって欲しい、と願ったのである。だが、幾ら、考えても、理由らしきものは見当たらない。「全てが忌まわしくて、疎ましい」その様な想いしか、分からぬのである。まともな言い訳とは思えぬし、自分自身も納得し兼ねる。彼女の悩みは深まって、彼女の心を苛み始めた。そして、両親や世間への負い目であろうか？他人はおろか、両親の視線すら、恐ろしいのである。人に会うのが怖かった。やがて、彼女は部屋に籠もって、両親の呼び掛けに応じる事すら、厭う様に成ったのである。 だが、両親はそんな彼女の行動を自分等への反抗と受け取った。そして、京子の心の変調を見逃したのである。いや、おそらくは、認める勇気が無いのであった。「しばらく、ソッとして置こう、一時の、気の迷いなのに違い無い」彼等は心配をしながらも、時間の解決する事を心密かに期待していた。だが、そんな両親の切なる願いも、まるで京子には、通じない。むしろ、彼女の心は益々、内向して、心の殻も堅さを増したのである。近所に住まう人々の、詮索する様な眼差しや、両親の鋭い眼差しが彼女を嘖むからだった。いや、他人の視線はともかくとしても、もしかすると、両親のその様な眼差しは京子の錯覚であったのかも知れ無い。両親の困惑の表情に、幾分かは紛れていたのかも知れないけれども、彼等に、そんな意識など、在ったのだろうか？ だが、少なくとも、当時の京子には、そんな具合に感じさせる異常な心理が働いていた。心の底に潜む両親への負い目が四六時中、彼女を苛むからだった。無論、当時の京子は自分のその様な心理を殆ど知らない。彼女は部屋の隅にジッと、蹲って、正体不明の圧力に、耐えて居るしか、仕方が無かった。そして、何故だろう？その苦しみは次第に、心に底に沈殿をして、怪しい何ものかを産み出し始める。「自分が此処に、こうして居るのは、世間がそうさせたからに違い無い、もしかすると、両親までもが、関わっている」その様な疑心が自然と湧いて、恐ろしい恨みを育んだのである。無論、心優しい京子であるから、その様に思う事は望まない。「世間から逃げたい、という気持ちが、そう思わせるのだろうか？そうよ、私の妄想に決まってる」彼女は時折、そう自分に言い聞かせて、懸命に、悪しき想像を否定したのである。 だが、しばらく経って、気が付くと、振り切った筈の想像に何時の間にか、捕らわれている。どろどろとした恨みの念は益々、大きく成長していた。「でも、どうして？」京子は一人、想い悩んだ。だが、相談相手など、端から居ない。いや、他人に話すのは怖かった。「どのみち、面白がられるか、蔑まれるか、非難をされるのに決まってる」その様な疑心暗鬼が素直に成る事を阻んだのである。当時の京子には、飼い猫の視線すら、恐ろしい。彼女はひたすら、部屋に籠もって、鬱々とした日々を過ごしたのである。食事すら、家族が寝静まったのを見済まして、こっそりと取る有様である。生活のリズムは益々、乱れて、不眠が彼女を悩ませ始めた。そして、幻聴も始まった。 そんなある日、京子は恐ろしい夢を見た。気が付くと、暗闇の中に佇んでいる。透明感の殆ど無い、妙にどんよりとした空間である。「此処は何処なの？」彼女は怖々、見回した。と、闇の遙か向こうから、微かに、旋律が伝わって来る。寂しげではあるが、妙に陰湿な感じの、異様に不気味な音色である。「笙の笛だわ？」京子は思わず、呟いた。「でも、何の曲だったかしら？」どこかで、聴いた様な気のする旋律なのである。京子は恐れを感じながらも、じっと、聞き耳を立てていた。すると、それはどうやら、越天楽であるらしい。だが、それは変調して居り、雅な風情など、感じられない。むしろ、それは薄気味悪く、狂おしいほどにもの悲しい、怨念の曲へと変えられていた。「魔性の笛に違い無い！魔物が私を誘いに来たのだ！」京子は恐れ戦いた。そして、孤独感が京子を襲った。もはや、救いを求める相手など、この世界には、誰も居ない。だが、救いは欲しい。京子はすがるものは無いのか、と、辺りの闇を見回した。だが、期待に反して、其処には、不気味な闇が陰鬱に広がるだけである。京子は絶望的な眼差しで、音のする方向へと、視線を向けた。と、妙である。闇が微妙に蠢いている。そして、闇に蠢く怪しい影が異様な造形を表し始めた。見ると、それは日本画の襖絵に見られる這い松である。蛇の様にクネクネと、怪しげに幹をくねらせながら、闇の中から、湧き出して来る。そして、それはじわじわと、京子の方へと迫り始めた。 奇怪に蠢くその松は一本の様にも思えるし、数本の様にも思われる。暗がりの中で蠢く度に、あるいは解け合い、あるいは分離し、怪しい舞を舞うのであった。明らかに、それは怨念の舞である。恐ろしい邪念を放出ながら、なおも京子へと近付いた。「魔物の化身に違い無い！」京子は邪念に圧倒されて、ジリッと、一歩、退いた。と、奇怪である。やおら、生暖かい感触が京子の背中に張り付いた。恨みの念を伴って、ねっとりと、京子に身体を押し付けて来る。京子は体を硬くした。感触は人間ではあるものの、魂にまで入らんとする、その気配は人間のものとは言い難い。「松だわ！」京子の直感がそう言った。だが、彼女の眼はその前方に松の姿を確かに見て居る。なら、背後の気配は何者なのか？だが、京子の無意識は既に、その答えを見出していた。松は魔物の仮の姿で、背後に居るのが実体なのだ。「だが、その実体は何者なのか？」京子は自分を叱咤して、「誰なのーっ！」と、大きく叫んだ。と、背後の気配が僅かに怯む。そして、不気味にニタリと笑うと、そのまま、スウッと、消え失せた。気が付くと、不気味な闇が広がっている。凍り付く様な恐怖が襲って、彼女は夢から解放された。 だが、妙である。目覚めた後も、松の気配は漂っている。「夢では無い！」京子はそう直感をした。もしも、此処で寝入ったならば、再び夢に現れて、自分を襲うのに違いない、と感じるのである。京子は眠らずに朝を迎えた。だが、朝の日差しが差し込んで、闇を追い出し始めると、やはり、ただの幻の様にも思うのである。京子は少し、考え込んだ。第一、口の無い松が笑うだろうか？そして、京子はその不気味な笑いを見ていない。「後ろで、笑った」と、心が感じただけだった。「やはり、錯覚だわ、ただの夢なのよ、あれは」彼女は自分にそう言った。だが、あの暗闇で見た不気味な舞は、そして、背後から襲った異様な気配は実際の体験そのものである。とても、否定し切れない。「やはり、何者かが此処に来た！あれは確かに悪霊なのだ！」京子は魔物が現れぬ事を切に願った。 だが、彼女の願いは打ち砕かれる。陰湿極まる幻魔の舞はその後も、しばしば、京子を襲った。そして、京子は抵抗の術を全く知らない。彼女は夢の直中で、ただただ、逃げ惑うだけである。彼女は昼間、うたた寝をして、夜は殆ど眠らなかった。「夜、眠らなければ、魔物は出ない」彼女はそう考えたのである。だが、夢の魔物は狡猾である。僅かなまどろみを見済まして、執拗に彼女を責め立てた。もはや、昼間ですら、まどろむ事は許され無い。自分が今、起きているのか？眠っているのか？彼女はやがて、その事すら、定かでない状態にまで追い込まれたのである。それでも、京子は時折、「魔物など、居る筈が無いわ！」と、自分を奮い立たせて、夢の合理的な説明も試みた。恐れの生み出す錯覚なのだ、と、そう自分に言い聞かせたのである。だが、心はそうは思ってくれない。忌まわしき夢の物の怪は益々、その本性を露わに示して、彼女を頻繁に悩ませたのである。そして、あろう事か、それはやがて、実体と成って、彼女の現実に染み出し始めた。京子のか細い神経は危うい所にまで追い込まれていた。 だが、両親は京子が其処に到っても、様子を見る事に終始した。いや、事実を知る事が怖かったのである。彼らは表層的な理解に留まって、結局は何も為し得ずに、自らの混乱も深めて行った。夫婦間の関係も、ぎくしゃくして来る。家族の心はバラバラと成り、京子のあからさまな反抗も、其処に至って、現れ始めた。そして、何故だろう？彼女の不可解な反抗は父に対して向けられた。京子自身、理由の分からぬ反抗である。両親の戸惑いは当然だった。両親はついに、考えあぐねて、考える事を止めて仕舞った。そして、その様な傍観は彼らに言い知れぬ苛立ちを抱かせ始める。それが恐ろしい憎悪へと変わるまでに、そうは時間も掛からなかった。些細な失敗を口実に、手酷い罵声が京子に飛んだ。だが、両親の突然の変貌は京子に取って、予期のし得ぬ出来事である。「あの優しかった両親が何故だろう？不甲斐ない自分を何とかしようと、わざと冷たく当たるのだろうか？」だが、酷い仕打ちが重なると、そんな風にも思えない。僅かな支えも失って、彼女の孤独は深まった。そして、抜け殻の様に無気力と成り、死への誘惑が彼女を捕らえた。彼女は死に場所を求めて、家を出た。 ちょうどその頃、札幌にいた坂崎は強い念波を察知した。凍り付く様に寂しげで、すすり泣く様にも思われる。それは紛いも無く、救いを求める魂が無意識に発した念波であった。いや、むしろ念の暴発、とでも言うべきだろうか？いわゆる念波、とは言い難かった。発信者は明らかに、自分のその様な能力に気付いて居ない。これは危険な事だった。このまま、これを放置したなら、自らの念で滅び兼ね無い。悪しき霊や物の怪に飲み込まれぬ、とも限ら無かった。坂崎はすぐに押知に連絡を取って、発信者の救出へと動き始めた。押知等が最初に発信地点を確認したのは渡島半島の先端部である。だが、彼等が其処に向かう頃には、別の場所へと移動をしていた。発信者はふらふらと、所在を変えて居るらしい。試みに、発信者の足跡を地図で辿ると、それは確実に北上している。ならば、札幌は通るだろう。おそらく、札幌駅で発信者を待ち受けるのが最善の策と思われた。 その頃、京子は死に切れず、当ても無しに放浪していた。家族の仕打ちに絶望した時、彼女は確かに死のう、と思った。だが、それは決して、魂が萎えた所為では無かったのである。あの魔物や薄情な家族、そして、不甲斐の無い自分自身など、一切の疎ましい状況からの逃避であった。彼女に取って、生の放棄は逃避の心理が行き着いた論理的な帰結でしか、無かったのである。彼女はまだ、生への意志を持ち続けていた。実を言えば、彼女は無意識ながら、救いを求めて、家を出たのである。だが、それもいよいよ、限界である。手持ちの金も底を突き、死への誘惑は深まっている。坂崎に札幌で保護されたのは、彼女に取っては幸運だった。 京子は押知の牧場で、魔物の正体を知らされた。京子を襲った物の怪は精神錯乱のもたらす幻などでは無いらしいのである。意識されざる念の力で、彼女がこの世へと招いてしまった精神的な実在だった。そして、その実在とは、彼女の場合、父親などに代表される日本社会の裏面であった。言い換えると、彼女の精神に染み込んだ社会の裏面の何事かだった。だが、それは彼女の魂とは馴染ま無かった。その故に、自分すら、気の付かぬ葛藤が彼女の内面に生まれたのである。彼女に取って、その様な相容れぬ精神はまさしく、人格を持った敵である。そして、まさにその事が魔物を産み出す力と成った。逆に言えば、それは自らの魂を守らん、とした無意識による作為であった。自分と一体であった魔物を自分自身から分離して、そして、それを他者と見なして、心の内で対峙したのである。その故に、魔物は京子に戻ろう、と、彼女を襲った。 魂の抱える矛盾の多くは、社会の矛盾が人の心に移植される事に起因している。そして、多くの人は生きる為に、その様な矛盾と妥協して、差し当たり、魂の葛藤からは、逃れ得たのである。しかし、京子はその様な矛盾にすら、気が付かず、その故に、何の妥協も為し得なかった。だが、それは何時、爆発するか分からない爆弾の如き矛盾なのである。その故に、就職と言う環境の変化が引き金と成って、ある日、突如として、炸裂した。そして、京子の遅ればせながらの葛藤が無意識の内に始まったのである。魔物が実在として現れた今、もはや、魔物との妥協などは有り得ない。魔物を消し去るか？あるいは、魔物に飲み込まれるか？選択肢はそのいずれかである。 その故に、京子は押知の協力の下、魔物の正体を意識しながら、魔物と戦う自分の姿を日夜、心に思い描いた。それは一種のシミュレーションである。具体的には、夢に現れた魔物に対して、武器を持って、あるいは素手で、攻撃を加える、と言うかなり詳細なイメージトレーニングであった。京子は夢に魔物が現れる度に、その様な思念に従って、忌まわしき幻魔と戦った。適切なる思念の効果は絶大である。魔物は京子の抵抗の姿勢に、徐々に力を失って、やがては、現れる事も無く成った。たとえ、再び、魔物が出ても、対処に自信が付いた今、それほど、恐ろしい存在では無く成っている。問題はほぼ、解決していた。元々が、彼女の生み出した魔物であるから、彼女の意志が強固であるなら、それは当然の帰結ではあったのである。だが、不幸にも、戻らぬものが僅かに在った。帰るべき家はもはや無い。京子の産み出した魔物の毒が両親の魔物を呼び出して、彼等を虜にしたからだった。「全ては自分が悪いのだ」京子はそう自分を責めた。 影浦は京子の話をある感慨を持って聞いていた。人間と言うものは時として、多くの悪霊や悪魔に悩ませられる。そして、それは殆どが自分の魂と相容れぬ自分自身が持つ想念だった。つまり、内なる敵が実在として、当人の世界に現れたのである。釈迦やキリストの戦った、多くの悪霊や悪魔や魔物も、更に厳しい内省が呼び覚ましたものなのに違い無い。内なる敵を意識して、自らの力で呼び出したのである。そして、それらと対決をして、打ち勝ったのに違い無かった。彼等の悟りは、その上にこそ、成り立っていた。しかしながら、ある種の人には、それは触れては為らぬ事柄である。それは彼らがその様な魔物らと取引をして、生を営んでいるからだった。その故に、彼らはある種の真実に背を向けた。魔物と自らの魂との矛盾を意識したくはないからである。自分に都合の良い真実だけで、丸く収まる小さな魂、それを保って行く事がその様な人間が選び取る無事に生きる方法だった。彼等の思考が硬直するのも、この事を抜きにしては語れ無い。受け入れ難い真実の一歩、手前で、立ち止まり、引き返さざるを得ぬからだった。其処を押して、思考をすれば、抜き差しの為らぬ矛盾に陥る。思考停止は彼らにとって、その様な生き方を保証する必要悪であったのである。 だが、果たして、その様な思考停止を本当に是として、良いのだろうか？逆に、彼らと彼らの関係者に多くの不幸をもたらしているのではないのか？影浦には、そう思われた。ある種の真実を受け入れない、と言う事は、知らぬ間に、多くの過ちを犯している可能性が大きいからである。いずれにしても、心の矛盾は意識をする、しないに拘わらず、彼らにも厳然として、内在している。たとえ、その矛盾と妥協をした、とは言っても、油断は出来ない。何時、それが炸裂して、精神のバランスを崩さない、とも言い切れないのである。さもなくば、その様な矛盾の精神的な圧力が彼らの身体を蝕む事も無きにしも非ず、なのである。真実を認めぬ彼等には、その様な危険が付いて回った。更に、今、あの忌まわしい羽虫達が巷を覆って、イナゴの様に飛び交っている。偽りに満ちた魂は真っ先に餌食とされて、滅ぶのだった。
Cotosiro