可能世界・陰の神話 第十七章第三話		亜真野の挑戦 This was revised in December 10, 2006. This was revised in September 24, 2008.		野口博正の提供による 　あるひとつの可能世界
	しかし、その頃、神殿を囲む森の中では、怪しい影が蠢いていた。亜真野とその配下等である。五百名ほどは居るであろうか？皆、迷彩服に身体を包んで、木々の影で、身構えている。もし、最後の秘儀が成就したなら、祟りの神々が巷を覆って、亜真野の目論む神の世界は灰燼と帰して仕舞うだろう。そう成る前に、忌まわしき古代の怨念を葬り去る事が必要だった。彼らは攻撃の合図を今や、遅し、と待ち受けていた。無論、神殿を守る警護の信徒は誰、ひとりとして、気付いて居ない。亜真野は陣形が整ったのを確認すると、銃器を構える配下等に、射撃の合図をついに送った。一瞬、静けさが打ち破られる。凄まじい銃声が轟き渡ると、悲鳴と怒号がそれに続いた。神殿を守る信徒等はバタバタと倒れて、絶命して行く。悲鳴も怒号も失せ果てて、深山の静寂が再び、戻った。その間、僅か、数分である。野外はいとも簡単に、亜真野の支配下に置かれてしまった。まずは、さい先の良い展開である。配下等の士気は高まった。亜真野が間髪を入れず、突入の合図を彼らに送る。配下等は、「おおーっ」と、合図に呼応して、一斉に、奇っ怪なる神殿へと押し寄せた。バズーカが神殿の扉へと打ち放たれる。固く閉ざされた分厚い扉が一瞬にして、吹き飛んだ。もうもうたる黒煙が立ち上る。巻き上げられた粉塵が黒煙と共に辺りを覆った。その中を亜真野の配下等が駆け抜ける。そして、彼らは雪崩の様に、神殿内へと押し入った。だが、奇襲の効果も其処までである。神殿内の信徒等はすぐさま、体制を立て直すと、亜真野等の侵入を阻止しに掛かった。彼らの邪悪な心から、悪徳の羽虫が湧き出している。そして、それは宙を舞い、忌まわしき侵入者の頭上から、恐ろしき毒をしきりに浴びせた。羽虫の毒は極めて強い。卑しき亜真野等の魂などに抵抗の術など、殆ど無かった。亜真野の配下等は次々と、呆気なくも、命を絶やした。 だが、無防備な事なら、祈言の信徒等も同様である。亜真野等の銃器には、恐ろしき念が込められており、狙われたなら、最後、死ぬしか無い。羽虫と弾丸とが飛び交って、見る間に、屍が重なった。あの建比良や猿女すら、断末魔の悲鳴を上げて、破滅して行く。血のりと屍が辺りを覆って、神殿内は地獄と化した。もはや、其処で、生在る者は亜真野とふたりの巫女だけである。巫女等は羽虫を操って、亜真野一人に向けさせた。羽虫が不気味な羽音で呼応する。黒雲の様に渦を為すと、亜真野の身体をスッポリ、覆った。巫女等が不敵にニタリ、と笑う。亜真野のこれまでの強運も尽きた様に思われた。が、何故だろう？巫女等の顔付きがやにわに変わった。亜真野に殺到した羽虫達が宙で、突然、藻掻き始めて、次々に、炎に包まれる。そして、それは一瞬にして、火の粉と成って、浮遊した。燃え尽きた白っぽいその灰が粉雪の様に舞い落ちる。その粉雪の舞の直中には、全身から、怒りの炎を迸らせる恐ろしい形相の亜真野があった。羽虫達の攻撃も亜真野には、どうやら、利かぬのらしい。燃える亜真野の右手には、何時、取り出したのか？両刃の鉄剣が握られていた。襲い来る羽虫を瞬時に燃やして、二人の巫女へと、じわりと、迫る。巫女等はジリッと、後ろへ下がった。と、亜真野が更に、間合いを詰める。巫女等は洞穴への扉へと追い詰められた。唇を噛んだ巫女等の様が無念の想いを露わにしている。しかし、巫女等は扉を背にして、一歩も許さじ、と身構えた。けなげにも、自らの命を盾にして、洞穴を守ろう、と言うのらしい。だが、その顔は異様に引きつって、死人の様に青ざめていた。 「さて、どう、料理をしてくれようか！」亜真野は不敵にニヤリと、笑うと、いたぶる様に剣を構えた。が、何故だろう？恐ろしい殺気が亜真野を襲う。巫女らでは無い。一瞬、亜真野は危険を感じて、柱の影へと転がり込んだ。と、その直後、洞穴の扉に亀裂が走った。バリンと、大きな音がする。扉の亀裂が大きく裂けて、真っ赤な炎が吹き出した。凄まじい爆風が亜真野を襲う。亜真野は柱に助けられたが、巫女等は床へと吹き飛ばされた。もはや、息は無さそうである。煙った躯は何も言わぬが、その目は何故かしら、悲しげだった。亜真野に負けた無念の思いか？あるいは、奈落への恐れだろうか？いずれにしても、その形相は巫女らの抱く寂しさと満たされぬ想いの表れだった。亜真野は割れた扉へと視線を送った。と、最前の殺気が亜真野を襲った。扉を砕いた真っ赤な炎がやにわに大きな弧を描く。炎の飛沫を辺りに散らして、亜真野を目掛けて、襲い掛かった。生き物の様に蛇行をしながら、身を交わす亜真野を追い詰める。「これは何とした事か？」亜真野は炎を凝視した。 と、それはただの火では無く、灼熱の甲虫の群である。白く輝く熱線が真っ赤な甲虫を縁取っていた。亜真野は幾分、気を押され、一歩、二歩、と退いた。と、その刹那、無惨に裂けた大きな扉が不気味に軋んで、グラッと、揺れた。そして、ガラガラと、崩れ落ちると、亜真野の頭上へと倒れかかった。亜真野は咄嗟に、身を翻すと、二、三歩、後へと飛び退いた。扉が一瞬、亜真野を掠める。大音響がこだまして、辺りの一面が塵に煙った。倒れた扉の向こうには、観音堀の洞穴が不気味な口を開けている。赤い蛍光を放射して、何者かの影を浮き上がらせた。塵に煙って、良くは見えぬが、言代主なのに違い無い。亜真野はジッと、影を見つめた。だが、ひとつの影と見えたのは実は、男女の一対である。極彩色の衣を纏い、微動だにせずに佇んでいる。御大津姫は美しく、言代主は奇怪だった。顔の色は異様に青く、極度に薄い唇が血の色の様に異様に赤い。切れ長の眼が真っ赤に燃えて、仁王の様に亜真野を睨んだ。肉体を得て、此の世へと蘇った祟り神、秘儀の実現に違い無い。もし、最後の秘儀が為されておれば、亜真野と言えども勝ち目は無かった。だが、既に、賽は投げられて居る。此処に至っては逃げられぬ。亜真野は全身に気合いを入れて、二人の前へと、立ちはだかった。 言代主は怒りの為か、自らの強い髪毛を炎の様に逆立てている。凄まじい形相で亜真野を睨むと、憎々しげに、呪いの言葉を吐き出した。「汝、秘儀、犯したる者よ、我は許さじ、奈落の底へと、落としてくれよう！」すると、灼熱の甲虫が火龍と成って、亜真野を襲った。だが、奇妙な事に、亜真野に動揺は見られない。彼は素早く、火龍を交わすと、左の腕を頭上に掲げた。その手には、何時、取り出したのか？銅の鏡が握られている。亜真野が何やらを念じると、銅鏡が一瞬、きらめいた。そして、それは不気味に唸って、辺りの空気を震わせ始めた。と、何故だろう？火龍の飛跡がふらりと、揺らぐ。火龍の身体が拡散をして、灼熱の甲虫が藻掻き始めた。鏡が火龍を引き寄せるらしい。見る間に、甲虫の群れは渦巻きながら、鏡の面へと吸収された。言代主は顔を微妙に歪ませて、その悔しさを滲ませている。亜真野は余裕を見せ付けながら、不適な笑みをニタリと、漏らした。「言代の神よ、汝、既に、破れたり！許しを乞うて、封印の城へと戻るが良い！然も無くば、此処で、朽ちるのである！返答や、如何に！」すると、御大津の神がたじろいで、言代主の顔を盗み見た。だが、言代主に、動じる気配は窺えない。薄い唇を歪ませると、陰に籠もって、ニヤリと、笑った。此処に及んで、この余裕は何であろうか？亜真野は幾分、不安と成って、言代主を上目で見つめた。と、その刹那、言代主が目を閉じた。彼の発する怒りのオーラがスウッと、薄れて、消えて行く。そして、それは急速に、淡い紫へと変わって行った。穏やかな気品に満ちた輝きである。亜真野は幾分、戸惑った。だが、言代主には、もはや打つ手など、無い筈である。「ふん、大方、観念でも、したのだろう」亜真野は嘲るように、呟いた。だが、そう即断して、良いのだろうか？相手はあの祟り神、言代主の怨霊である。何かの策でも、あるのだろうか？亜真野は再び、不安と成って、言代主の変化を見守った。 言代主の全身は今、白いオーラに包まれている。その顔付きも穏やかに、見紛うばかりに、変化をしていた。闇に佇む彼の姿は釈迦の様に厳かである。そして、眉間の辺りには、不可思議な光も現れ始めた。まるで、紫の水晶か、アメジストの如き輝きである。その光が額から宙にふわっと、漂うと、光の球へと変化を始めた。薄紫に淡く輝く蛍火の様な光球である。辺りの闇を蛍光させて、静かに、ゆらゆらと、下降を始めた。その様は淡雪の舞いにも思われる。春の臭いがふっと、した。と、言代主の左手が落ち行く光球へと差し伸べられる。光の球が微妙に揺らいで、その手の中に舞い降りた。そして、一回、ふわっ、と撥ねると、淡雪の様に消え入った。だが、其処には、何かが残されている。数匹の産まれたばかりの昆虫が濡れた羽を押し広げていた。蝶の如き羽を持つ極彩色の昆虫である。だが、胴体と頭の形状は蟻のそれに思われた。「キメラであるのに違い無い！」蝶と蟻とをイメージして、現象をさせたのに違い無かった。それにしても、キメラの動きは如何にも幼く、邪気も無い。言代主の掌で、戯れる様に跳ね飛ぶ様は愛おしくすら、思われる。「何のつもりだ？」亜真野は咄嗟に、言代主を窺った。だが、妙だ。釈尊の様な言代主はまるで、亜真野など、居ぬかのように、慈愛に満ちた眼で、キメラを見ている。そして、全くの無防備である。襲うのならば、今しか無い。亜真野のこめかみが微かに震えた。だが、何故か？亜真野は動こう、とはしなかった。不思議なキメラの有様に幻惑されでもしたのだろうか？それとも、彼の好奇の心が見続ける事を選択したのか？いずれとも定かには分からぬけれども、亜真野は微動だにせずに佇んで、言代主とキメラを見つめ続けた。 見ると、キメラの羽の輝きは更に、見事さを増している。そして、飛び方も、足の運びも、確かなものへと変わって行った。一匹、二匹、三匹と、巣立ちをする様に宙へと漂う。鱗粉の飛跡が虹の様に棚引くと、次第に拡散をして、消え失せた。気が付くと、神殿の外壁は既に、無く、春の陽光が満ち溢れている。朱色に塗られた柱の向こうは、見渡す限りの梅林だった。そして、キメラはその中を、ひらひらと、舞って、戯れている。いや、飛んで居るのはキメラでは無い。薄衣を纏った美穂だった。春の陽射しが衣を透かして、しなやかな肢体を露わにしている。「何と、美しい！」亜真野は思わず、魅せられて、恍惚として、美穂を仰いだ。と、その時、心の中で、「気を付けろっ！」と、何かが叫んだ。「そうだ、これは罠なのだ！」亜真野は咄嗟に、我へと帰ると、周囲の状況に注意を払った。気が付くと、既に、一面の闇である。言代主の恨みのオーラが怪しい闇の直中で、不気味な炎を揺らめかせていた。「クソッ、キメラは何処だ！」亜真野は咄嗟に、飛び退いて、壁を背にして、身構えた。と、一瞬、遅れて、羽音が唸った。キメラである。亜真野は危うく、キメラを交わした。だが、その直後、異様な臭いが鼻を突く。キメラの注ぐ毒だった。キメラは蟻酸を吐き出して、毒の鱗粉を亜真野に浴びせる。亜真野は巧みにキメラを交わして、怒りのオーラで、毒を燃やした。蟻酸は瞬時に蒸発をして、毒の鱗粉が火花を散らす。一瞬の内に燃え尽きて、辺りの闇に溶け込んだ。キメラの奇襲は失敗の様にも思われた。 が、何故だろう？左の足に痛みを感じる。見ると、パックリと口が開いて、真っ赤な鮮血が滴っていた。「これは何とした事か？」亜真野はキメラを窺った。見ると、キメラの四枚の羽は鋭い剣へと変貌している。それがオーラを突き破り、亜真野の身体をも裂いたのらしい。蟻酸の蒸気が染み込んで、酷い痛みが亜真野を襲った。目はかすんで、頭痛も亜真野を苛み始める。銅鏡をかざす暇など、キメラは与えはし無かった。さすがの亜真野にも、焦りが見えた。毒の直撃は交わせても、蒸気までは無理である。銅鏡も錆びて仕舞わぬ、とも限らない。釈迦の様な言代主は苦しむ亜真野の様子をしたたかな眼で、ジッと、見ていた。毒が回って来たのだろうか？亜真野の眼はうつろと成って、身体の動きも緩慢である。時は至れり！「知れ者め、滅ぶが良いわ！」言代主は声高に、そう叫ぶと、これで、とどめ、と言わんばかりに、一斉にキメラを襲わせた。
Cotosiro