第九章　第三話
	神殿の謎
	その日、羽咋は霧雨だった。夜に成っても降り止まず、陰鬱な闇を煙らせている。気多の神社の辺りでは、 人の通りも殆ど見られず、僅かに並ぶ外灯が闇に微かに浮かんで見えた。宮城は今、そんな闇の狭間から、祈言宗の本部を窺っている。 雨の滴が身体を濡らすが、其処に潜入をするのには、むしろ味方とも成りそうだった。 だが、三万平米ほども在るその敷地はブロック塀にぐるりと囲まれ、警戒の程を思わせる。 ブロック塀の最上部には、鉄条網も張られて在って、鉄骨の返しまでが施されていた。 中の様子は皆目、分からず、闇雲によじ登る事は躊躇をされる。 また、今、使われている出入り口はたったの一カ所、守衛の居る北向きのゲートだけだった。 他のゲートは全てが堅く閉ざされており、進入経路とは成りそうに無い。「仕方が無い、此処から入ろう」 宮城はそう決断すると、守衛の老人に念波を送った。彼を眠らせる為である。 余り念波を使っては覚られる事も考えられたが、別段、何事も起こらずに老人はすぐに眠りに付いた。 ゲートの周辺は見たところ、人の気配も窺えぬ。宮城は足を忍ばせて、素早くゲートを擦り抜けた。 見回すと、東へ十メートルほど行った所に、古めかしい木造の建屋が佇んでいる。二階建てで洋風の、かなりの立派な造りであった。 東西に走る塀からは五メートルほどの隔たりが在り、其処に沿う横長の造りで建てられている。 部屋数は二十前後も在るのであろうか？ 幾つかの窓からは明かりも漏れて、人の気配も窺えた。 他にも建屋は幾つか在るが、皆小さく、人の気配は窺えぬ。目指す建て屋はそれで決まった。 だが、注意は要する。時折、敷地の暗闇で光るものが蠢いていた。見回りが居るのに違い無い。 敷地の所々には、建築資材なのだろう。雨よけのシートを被せられ、かなりの高さにまで積まれてあった。 「神殿建設の資材だろうか？」宮城はそれを横目で見ながら、目指す建屋へと歩みを進めた。
		だが、その位置からは入り口らしき物は見当たらぬ。宮城は建屋に取り付くと、外壁に添って少し歩んだ。 そして、建て屋の角まで来ると、そこで一旦、歩みを止めた。南側の暗闇は北側に比べて僅かに明るい。 彼は壁面に身を寄せて、南側をそっと覗いた。 と、建屋の中央の辺りだろうか？ ベランダ風の出っ張りが大きくせり出し、白い灯りに照らされている。 緩い傾斜で幅広の優雅な造りの階段が落ち着いた佇まいを演出していた。玄関であるのに違い無い。 そのすぐ脇には小さな部屋も在るらしく、窓から漏れ出す白い明かりが幾人かの影を浮き出させていた。 六、七人は居るのだろうか？ 部屋の位置と大きさから見て、警備員なのに違い無かった。
	それにしても、この物々しさは何だろう？ 木材工場の事務所だったと言うこの建屋と言い、とても信仰の殿堂とは思われぬ。 むしろ、軍事基地か何かのようで、怪しげな雰囲気すら漂っていた。 「だが、何処から入ろう？」玄関脇には警備員がガードをしている。幾つかの部屋からは灯りも漏れて、人の気配も窺えた。 窓から入る予定だったが、この様子では危険に思える。「どうしようか？」宮城はフッ、と屋根を見上げた。 と、二階の窓と屋根との間に、横長の四角い窪みが僅かに見える。縦、五十センチ、幅は三メートルほども在るのだろうか？ 「だが、何だろう？」宮城はじっと凝視した。と、それはどうやら窓である。工場だった当時、屋根裏部屋を利用した、 名残であるのに違い無かった。開ける事が出来るなら、潜り込む事も出来そうである。 「だが、道具が居るな　・　・　」宮城は明日、出直す事にして其処を離れた。 宮城はホテルに取って返すと、これまでに入手した情報を組み立て始めた。それらの情報は紛いも無く言代主と御大津姫との 関係を裏付けて居る。祈言宗の本部がこの羽咋に置かれた秘密に付いても、語っているものと思われた。 気多神社は古くは気多大神宮と呼ばれた歴史の在る神社で、その祭神は多穴牟遅命と言われている。 その口碑によれば、孝元天皇の治世の折り、この地には不貞の輩が多くあり、悪しき行いで世情を乱した。 そこに多穴牟遅命が現れて、そんな輩を懲らしたのである。長い間、苦しんで来た能登の住民は大いに喜び、その神徳を称え、 祭ったのだ、と言う。 だが、それは果たして真実だろうか？ 口碑に於いて不貞の輩とされたのは実は、多穴牟遅命を称えたとされる当の住民達では無かったのか？ 宮城はそんな疑念を抱いたのである。
	おそらく当時、能登の住民も他地域の部族と同様に部族特有の風習や祭事などを所有していた。 そして、この口碑からは大和の影響下に在った事も窺い知れる。いや、支配下に在った事すら考えられた。 いずれにしても、能登の祭事は天津神々の浸食を受け、大きな変化を遂げつつあった。 と成ると、自らの魂を守ろうとし、反抗する一派が現れるのも歴史的な必然である。 能登の住民は大和従属派と部族派とに分かたれ、血みどろの戦いをしたのに違い無かった。 だが、大和は当然の如く、従属派の側を支援した。 部族派はその圧倒的な力の前にあっさりと葬られたのでは無いのだろうか？ いや、それはまず間違いなかった。 大和の覇権は盤石と成り、能登の住民の部族の誇りは無惨なまでに砕かれたのである。
	さて、その様な事情を考慮に入れると、口碑に於いて不貞の輩とされたのは盗賊などでは在り得なかった。 自らの文化を守ろうとし、大きな大和に歯向かった、部族派だったのに違い無い。 土着の民の心情も、部族派側により近かった様にも思われる。 一方、部族派を破り、能登の支配者と成った大和はその証として、自らの神を能登の地に祭らねば為らなかった。 だが、その祭神が問題である。選定は土着の民の心情も考慮に入れて、禍根を残さぬよう、せねば為らない。 然も無くば、何時また不貞の輩が現れるか分からぬのである。 其処で大和は一計を案じ、多穴牟遅命にその役割を担わせた。 この神は国津神では在るものの、大和の勢力拡大には多大の貢献を為している。 また、その一方で、大和の出現以前、畿内と山陰、能登に掛けての支配者、保護者でもあったのである。 大和に荷担したとは言え、多穴牟遅命への信仰は能登では未だ絶大だった。彼らの敬愛の情には、いささかの陰りも無かったのである。 その故に、大和は征服民懐柔の切り札として、また国譲りの神として、崇めたのである。 現にその方針は明治、いや、昭和の敗戦に到るまで受け継がれて居る。多穴牟遅命は大和に取って、欠かせぬ神と成って居た。 だが、裏切られた筈の国津の部族が何故、多穴牟遅への敬愛を持ち得たのだろう？ 実を言えば、その事も歴史の深層に隠されていた。
		祟り神の悲劇によれば、多穴牟遅が国譲りを迫られた時、彼は大和に対抗すべき術を失っていた。 生き延びる為には、国を譲るしか無かったのである。 無論、無条件の降伏などでは、部族の証、神々までもが奪われぬ、とも限ら無い。「譲るにしても、祭事だけは守らねば為らぬ」 それが多穴牟遅の偽りのない心情だった。其処で彼は掛けに出た。国を譲る条件として、祭事の存続を願い出たのである。 然も無くば、徹底抗戦、在るのみ。多穴牟遅は大和にそう述べて、弱者の恫喝を為したのである。 そして、その時、自らが隠り身の神と成る事も大和に告げた。約束をもしも、違えたならば、祟りを為すぞ、 という無言の大和への圧力である。 歩の悪い掛け、とも思われたのだが、多穴牟遅の一念は通じたらしい。 大和は祭主の任免権譲渡を条件に彼の提案を容れたのである。多穴牟遅の目論見は成功したかにも思われた。
	だが、裏切られた筈の国津の部族が何故、多穴牟遅への敬愛を持ち得たのだろう？ 実を言えば、その事も歴史の深層に隠されていた。 祟り神の悲劇によれば、多穴牟遅が国譲りを迫られた時、彼は大和に対抗すべき術を失っていた。 生き延びる為には、国を譲るしか無かったのである。 無論、無条件の降伏などでは、部族の証、神々までもが奪われぬ、とも限ら無い。「譲るにしても、祭事だけは守らねば為らぬ」 それが多穴牟遅の偽りのない心情だった。其処で彼は掛けに出た。国を譲る条件として、祭事の存続を願い出たのである。 然も無くば、徹底抗戦、在るのみ。多穴牟遅は大和にそう述べて、弱者の恫喝を為したのである。 そして、その時、自らが隠り身の神と成る事も大和に告げた。約束をもしも、違えたならば、祟りを為すぞ、 という無言の大和への圧力である。歩の悪い掛け、とも思われたのだが、多穴牟遅の一念は通じたらしい。 大和は祭主の任免権譲渡を条件に彼の提案を容れたのである。多穴牟遅の目論見は成功したかにも思われた。 　　　　（隠り身の神と成る　・　・　肉体から離脱した神、つまり、死んで神に成る、と言う事） だが、言代主に取って、任免権の譲渡は祭祀権の放棄と変わりは無かった。祭主は自分で在らねば為らない。 言代主には承伏し兼ねた。そして、勝算の無い戦いを大和に挑んだ。無論、多穴牟遅には何の相談もして居ない。 多穴牟遅の怒りは凄まじかった。この儘では、せっかくの自分の工作も水の泡とも帰し兼ねぬ。 彼は止む無く大和に荷担し、言代主と刃を交えた。言代主など、古い国津の部族に取っては、元々が無謀な戦いである。 彼等は次々と敗走し、無惨なまでに打ち砕かれた。そして、言代主も自殺した。美保の沖へと船を漕ぎ出し、海の藻屑と消えたのだった。 一方、多穴牟遅は大和の勝利を見届けた後、宣言した通りに死を選び、隠り身の神と成るべく此の世を去った。 そして、大和は多穴牟遅命を出雲に祭り、言代主命を御大津姫命の美保神社へと合祀した。彼等の最後の言の葉を恐れた故の行動だった。 かくして、多穴牟遅の目論見通り、出雲の神々は生き残り、部族の証も守られたのである。 そして、まさにその事が多穴牟遅への敬愛を保たせた真の理由であるのであった。
	だが、宮城は此処で、能登に於ける部族派には、その住民だけでは無く、言代主の一族も加わったのでは無いのか、と疑った。 いや、もしかすると、部族派の中心は言代主の一族であったのかも知れ無い。大和に敗れた彼等の一部は北に逃れた筈だった。 能登に潜んで、再興の時を窺っていたとしても不思議では無い。 ならば、彼等はこの地に於いて言代主命を祭っただろう。大和を滅ぼし、故郷を奪回させしむる救い主の神として、である。 そして、入り江の神、御大津姫命は羽咋の置かれた地形から見て、やはり祭られていた、と考えられる。 もしかすると、気多神社の本来の祭神は御大津姫命であったのかも知れぬのである。 本部が羽咋に置かれた事と、その事に関わる大きな秘密は此処に関わるのに違い無かった。
	さて、その翌日、本部に忍び込んだ宮城は重大な発見をしてホテルに戻った。神殿の建設は既に始まって居るのらしい。 盗み見た資料から推測すると、その殆どが仕上がって居るもの、と思われた。 だが、奇妙な事に、その建設現場は市街地では無く、何と碁石が峰の山中である。 「何故なのか？」宮城は急ぎ登山具を整え、借りた車へと飛び乗った。 時計を見ると午後の九時。碁石が峰への山道は御子原に在る。宮城は目一杯に車を飛ばした。 車が神子原に差し掛かると、宮城はその標識に碁石が峰への矢印を見、速度を緩めた。 ふと見ると、少し前方の林の影に碁石が峰への山道がある。宮城は其処に車を止めて、登山具を背負って歩き始めた。 だが、道を歩くのは危険に思える。祈言宗の手の者が何処に潜んで居るか分からぬのである。 彼は山道を避け、林の中へと分け入った。幸いにも、月の明かりが木々を縫い、山の斜面を浮き出させている。 宮城は足元に注意をしながら、ただ黙々と登り続けた。 だが、斜面は凹凸が極めて激しく、朽ちた小枝や灌木がしばしば足に絡み付く。山の起伏や倒れた樹木が度々、行く手を遮った。 宮城はしばしば足を止め、磁石を頼りに迂回した。だが、時間が気に成る。時々は、急勾配をがむしゃらに這うようにして登って行った。 吹き付ける風が肌を刺す。春とは言え、やはり夜の山は冷えるのだった。 斜面の窪んだ辺りには、解け残った雪もまだ在って、青白い肌を浮き出させている。 樹木の影が其処を横切り、美しい縞模様を演出していた。宮城はふっと気を引かれ、足を止めて眺め見た。 気の所為か、疲れがスーッ、と抜けて行く。一息入れると、登り始めた。 それから、一時間ほども歩いたろうか？ 前方の森がやにわに開けて、満天の星空が現れた。足下には、絶壁の断崖が落ち込んでいる。 遥か彼方の暗闇に山の稜線が浮かんで見えた。ルートに間違いが無いならば、此処が目標にした山腹である。 宮城はその儘、歩みを進め、ソロッ、と下を覗き見た。 無数の灯りが小さく見える。篝火らしい。そして、其処に照らされたのは無数の蠢く人影だった。
		「あっ、不味い！」宮城は慌てて身体を引いた。神殿はまだ見えては居ない。宮城は地面に腹這いと成ると、今度は慎重に覗き見た。 下までは、三十メートルほども在るのだろうか？ その深みには、神社風の建物がその屋根半分を覗かせて居た。 腕の時計に目を遣ると、午後の二時、普通なら生き物の寝静まる時である。 「だが、あの人影は何だろう？ 儀式だろうか？」宮城は更に彼等を見つめた。人の影は畚を担ぎ、列を成して蠢いている。 赤々と燃える篝火の脇には、棒状の物を携えた別の人影も確認出来た。監視役か何かだろう。 宮城は更に目を凝らし、彼等の動きを見守った。 だが、何という奇怪な姿だろうか？ 畚を担いだ連中は此の世のものとも思われぬ。
	黒っぽい頭巾様の布で顔まで覆い、俯き加減に行進している。歩く姿は鈍重で、亡霊の様に不気味に思えた。 そして、一瞬、宮城の脳裏を悪徳の羽虫が過ぎって行った。畚の中身が気に掛かる。宮城はジッと凝視した。 しかし、それは篝火を僅かながら反射して、赤く染まるだけである。 土砂の類とも思えるが、あの祈言宗の仕事であるから、そうは即断も出来兼ねた。 頭巾を被った亡者等は神殿から次々と湧き出して、鳥居の方へと行進している。 狭くて急な石段をただ黙々と下り降り、森の闇へと吸い込まれていた。そして、同じ闇からは同様の列がゆらゆらと幽霊のように 戻って来ている。歩みは幾分、軽いので、畚の中は空らしい。 何処かへ捨ててでも来たのだろうか？ あるいは何処かへ運んで居るのか？ いずれにしても用意周到な様子からして、 今日だけの作業とも思えなかった。とすれば、かなりの量が運ばれている。 「やはり土砂かな？ 地下室だろうか？」だが、見回したところ、建設資材など見当たらず、神殿も外観は完成している。 地下室を後で造るなど普通で在れば考えられず、夜更けにする作業とも思えぬのである。 今、魔性に満ちた神殿の奥では怪しげな何かが進行していた。 「だが、それは一体、何なのか？」警備はかなり厳重そうだが、探る為には降りねば為らない。 しかし、宮城は躊躇した。今、降りようとする神殿の裏手は張り出した岩場が邪魔をして、まるで様子が分からぬのである。 おそらくは神殿と崖とに挟まれた相当に狭い空間だろう。闇雲に降りて見付かったなら、逃げ道などは無さそうだった。 だが、此処での時間は限られている。「エエイッ、ここまで来たんだ、行って仕舞え！」宮城は岩場にザイルを固定して、 注意深く下って行った。そして、張り出した岩場に取り付くと、腹這いと成って下を覗いた。 と、神殿の全容がはっきり見える。 だが、その有様は奇怪だった。神殿は崖に密着し、屋根が岩肌へとめり込んでいる。「ん？ どういう事だ？」 宮城は思わず、首を捻った。だが、その所為で其処は下からの死角でもある。「案外、巧く行くかも知れん」
	宮城はザイルをそろっと延ばすと、素早く屋根へと降り立った。 が、何故だろう？ 屋根が異様に振動している。宮城は一瞬、動転し、屋根の上に這い蹲った。 耳を屋根にあてがうと、確かに振動が伝わって来る。 だが、その振動は神殿では無く、崖の中から響くのである。 いずれにしても、断続的な振動音だ。何処かで聞いた音でも在った。 「だが、何の音だったか？」宮城は岩盤にへばり付き、再び耳を押し当てた。機械的な振動音だ。 状況からして、削岩機の様に思われた。トンネルでも掘っているのだろうか？ いずれにしても、亡霊達の畚の中身は排出土なのに違い無かった。 だが、その目的は果たして何か？解いたばかりのひとつの謎が、新たな謎を産み出していた。
Cotosiro