第十三章　第一話
	野上と恵比寿
	影浦は押知を妻良に遣った五日ほど前、札幌に滞在する典子から、野上という面会希望者の居る事を聞かされた。 それは手紙では無く、電話の連絡であったのらしい。影浦はそのフルネームを確認すると、すぐに野上に電話を入れて、 その申し入れを受け入れた。野上は名を敏信、と言い、夷（恵比寿）神社の神主である。 また、神道研究家としても知られて居り、幾つかの著作も発表している。面識は全く無かったが、 影浦はその著書を少し読んで居り、彼の事は知っていた。野上は今日、この道場を訪れる事に成っていた。 だが、小林の失踪や康夫の事など、不測の事態が生じた所為か、どうにも気分が落ち着かない。 宮城は居ないし、坂崎は今、帯広に居る。そして、押知と京子も妻良から戻らぬ。出来得れば延期をしたいところであった。 だが、約束をしたものは致し方ない。男は時間通りに現れた。 それにしても、国家神道とは一線を画するこの神官が一体、何の目的で接触をしよう、と言うのであろうか？ 気分の問題は別として、影浦は言い知れぬ興味をそそられて居た。だが、いざ、その本人を目にすると、 三十そこそこの若さと言うのに物腰は妙に年寄り臭く、その印象は余り良い物とは言い難い。 緊張でもしているのであろうか？ 態度も堅く、ぎこちの無さが目に付いた。だが、彼のオーラに陰りは見られず、 怪しげな物は感じられない。持って生まれた性格がそうさせる様にも思われた。 彼の顔は顎が張り、首は太く短めで体の造りも骨太である。影浦はこのようなタイプの人間が謹厳実直である事を知っていた。 粘り強い性格でもあり、その中には、馬鹿の付く程に丁寧な態度で人に接する人間も、そう希では無かったのである。 野上はその典型か、とも思われた。 その野上が居住まいを正すと、畏まった様子で話し始めた。「先生、今日、お伺いを致しましたのは、ある事に付いて是非、 ご意見を拝聴致したく、お忙しい所をお邪魔致した次第なので御座いますが　・　・　」 そして、一旦、間を置くと、フウッ、と息を吐き出した。額には汗がうっすらと染み出している。
	彼はハンカチで汗を拭うと、再び畏まって語り始めた。「実は私、以前から、恵比須と言代主の関係を考え続けて参りました、 そして、ある重大な問題に気が付いたのです」 聞いている方も疲れるが、やはり緊張をして居るらしい。笑いの虫が騒ぎ出し、影浦をしきりと突き上げる。 堪え切れる自信も無い。影浦は「ちょっと失礼」と、席を立ち、離れへと足を急がせた。 そして、障子を閉め切ると、しつこく迫る笑いの虫を心置きなく解放させた。 これでしばらくは持つだろう。影浦は何食わぬ顔で席に戻ると、事務的な口調で問い掛けた。 「いや、どうも失礼を致しました、それで、何に気付いた、と言うのです？」「はい、少々、長く成りますが」 野上はそう前置きをし、自分の話を語り始めた。
	野上は古来から言われる恵比寿（恵比須）、言代主命、同一説に大きな不満を持っていた。その理由のひとつは 明治維新の仏神分離策の際、恵比寿が異端視をされた事への反発だった。 （仏神分離策　・　・　明治以前、仏神は何時からか渾然一体と成り、明確な区別が無く成っていた。 そして、明治の時代、それを分離し、その違いを明確にしようとする政策が打ち出される、日本を神国として位置付ける 為のものだった。） だが、恵比寿が異端視をされたのには、それなりの理由は確かに在った。古事記、日本書紀に恵比寿の記事は何も無く、 また恵比須を表す「夷」の文字も夷狄の神を想像させる。当時の国学派がこの神を天照大御神にまつろわぬ怪しげな神とし て軽視したのも無理からぬ事ではありそうだった。 そして、その事が当時の神社の態度にも、多大の影響をもたらした。夷（恵比寿）を祭るべき恵比須神社が異端視される 事を嫌う余りに同一説を利用して、その祭神を次々と言代主命へと変えたのである。 だが、恵比須を信ずる野上には、許し難い行為と思えた。そして、そうさせた国学派の考え方も承伏し難いものだった。 実を言えば、この同一説は言代主命がその昔、漁をしていた、という故事と、恵比須がしばしば海岸に現れた、 という伝承から推測をされたものだった。 だが、学術的な意味などはまるで無く、野上はその様なこじ付けが許せ無かった。 「しばしば、海岸に現れた、という事は其処には住んでは居ない、という事では無いか、内陸の神に決まってる」 野上はあえてその様なひねくれた見解を取っていた。祭神をいとも簡単に変えて仕舞う神社の態度も情けが無い。 便宜的に変えた事は明白であり、祭りを司る人間の取るべき態度とは言い難かった。
		「彼等は本当は、神など信じては居ないのだ」野上はそうも疑っていた。其処で野上は事の真相を見極めようと、 その研究に乗り出した。恵比須の神の源を明らかにし、本来の神性を回復させる。それが野上の願望だった。 だが、恵比須に付いての資料は少なく、僅かな伝承が在るだけである。其処から真理を汲み取って、 推理をするしか仕方が無かった。「だが、何故、こうも資料が少ないのだろう、何故、記紀には恵比須の記事が無いのだろうか？」 野上に取って、恵比須は神代の昔から祭られた由緒正しい神である。それだけに記紀に記載の無い事は不可解であり、 不愉快だった。「しかし、私は気が付いたのです」野上はそう述べ、話を続けた。
	恵比須の資料は何故、少ないのか？ 其処には、それなりの理由が在るのでは無いのか？ 野上は其処に思い至ると、 一応の推理を導き出した。夷は文字流入の遥か昔から祭られて居た為に、時と共に、その資料が次第に散逸し、 その因って立つ大元の神性が忘れ去られたのでは無いのか、と、考えたのである。 だが、恵比須は古今ともに祭られ、多くの人々に親しまれている。忘れられた神とは言い難い。 そして、神祖熊野櫛御気野命（カムロキ、クマヌノクシミケヌノミコト）の様に神性の不明な神で在っても、 記紀にははっきりと記されている。時間経過の説明だけでは克服出来ぬ問題だった。 そこで野上は恵比須は意識的に記紀から外されたのでは無いのか、と考えた。だが、記紀には言代主をはじめとする大和に 反抗した神々までもが余すところ無く記されて居る。従って、外された理由はまつろわぬ神であるからでは無く、 神性が分からぬからでも無さそうである。 ならば、夷の記紀からの排除には特異な事情が在らねば為らない。野上はそう考えた。 だが、その事情とは果たして何か？ 記紀の編纂に至るまで、大和は屈服した先住民の神々を自らの神々の体系に組み込み、 その序列化を推し進めている。それが先住民懐柔の国策であり、最優先の課題であった。 無論、その事は恵比須にしても例外では無い様に思われる。記紀から除外する事情など在ろう筈も無いのであった。 ならば、何故、記紀には載せられては居ないのか？ 「謎は深まるばかりで、私は途方にくれて仕舞いました」 野上はそう言い、一息、付いた。かなりの苦労をしたのだろう。その事は話のし様で窺い知れる。 だが、真実という厳しい女神は苦労などには微笑まぬ。あくまでも正しい認識にこそ微笑むのである。 影浦は内心、がっかりして居た。
	一般的に恵比須が祭られ始めたのは、せいぜい遡っても平安時代の初め頃、と言われて居る。 それ以前に編纂された記紀に記載の無い事は至極、当然の事だった。 夷への思い入れは理解も出来るが、余りに頑迷と思われる。「皮肉のひとつでも言って遣ろうか？」 影浦はそんな衝動にも捕らわれた。だが、生真面目そうな男を見ると、そんな意地悪も出来兼ねる。 「とにかく、最後まで聞いて見よう」影浦は野上の話を促した。野上が言った。 「はい、それで、しばらくは何もせずに居たのですが、その内、あるひとつの事に気が付いたのです」 実を言えば、記紀に記載された神々はそれが編纂された時代に入ると、全てが天尊族に屈服して居り、 正確に言えば以前のまつろわぬ神々だった。とすれば、未だまつろわぬ神々はどう扱われたのだろう？ 当然、記紀からは排除された、と考えねば為らない。夷の記載が記紀に無いのは、その所為なのに違い無かった。
	つまり、恵比須は未だまつろわぬ外敵の神、と考えられた。だが、その事は恵比須とエミシ、そして、 エゾとの関係を連想させる。夷を古来からの神、と考える事は可能と成ったが、彼は新たな問題を背負い込んだのである。 野上はいやしくも日本神道の神主である。夷が夷狄の神であるなど、考慮の外の問題だった。 だが、その事を認めなければ、古来からの神とも言えそうには無く、然も無くば、やはり平安期からの新興の神、 と考えるしか無かったのである。野上は二律背反に追い込まれ、またしても新たなる思索を迫られた。 恵比須は昔、「蝦夷」とも表記をされた。つまり、エビスを蝦夷、とも書いたのだった。 そして、その表記は古事記、日本書紀、そして、続日本紀などにも散見される。ただし、それは神の恵比須では無く、 あくまでも蘇我蝦夷などの人名や、大和とは一線を画する東北住民の呼称として使われていた。 エビスは初め、エミシ（愛瀰詩）と発音された。だが、時代が下るに連れて、それはエミス（江美須）、 エヒス（依比須）と、変化して、平安時代に入ると、おおむね、エビス（恵比須）で落ち着くのである。 これが発音の変遷だった。だが、その漢字表記は各々の時代を通じて、毛人、蝦夷、夷、等々が使われる。 ただし、人名などに関しては、その発音を表す依比須などもその儘、表記として使われた。 今、我々の多く使う恵比寿の文字は元来は発音を表す文字であり、体を表す文字では無い。 野上はその事にも強い不満を持っていた。 さて、その「エビス」が神の呼称として、初めて文献に現れるのは、平安も末期に成っての事である。 そして、その表記が、「夷」の文字で表されている。その神性も今のような福々しい神では無く、 荒々しい戦闘的な神として表現された。そして、何故か同じ頃、北方の夷狄がエゾと呼ばれる。
		つまり、その呼称がエミシからエゾへと何故か変えられたのだった。恵比寿の神の登場と、東北住民の 呼称の変化は絡み合いながら展開している。何らかの関わりは在りそうだった。だが、野上に取って、それは認め難い関係だった。 そして、彼は其処から抜け出したい一心で、一応の逃げ道を考え出した。 当時、東北住民をエミシ、と呼んだ事は間違い無かった。だが、それが即、北方の夷狄を表す、とは限ら無い。 東北には、大和にはまつろわぬ倭人が居り、それをエミシ、と呼んだのかも知れ無い。 つまり、エゾとは別の人種だったのかも知れ無い。 そして、もしもそうならば、夷は倭人の神とする事も出来るのである。野上に取っては都合が良かった。
	また、未だまつろわぬ神ならば、記紀に記される事も無く、古来からの神、とも言い易い。 野上はようやく二律背反からは抜け出せたのである。 彼はその発音と表記を手掛かりに、更に研究を積み重ね、恵比寿の神性を探って行った。さて、野上が最初 に注目したのは人名に使われるエミシであった。毛人、蝦夷、依比須、などがそれである。 元来、愛瀰詩は強い人の意味だろう、と言われて居り、その意味で人名に使われたものと考えられた。 夷狄の呼称を名乗るなど、常識的には考え難い。従って、愛瀰詩の呼称は夷狄のエミシとは、由来を 異にするとも推測できた。野上はその推論をより精緻なものとする為に、更なる思索を重ねて行った。 だが、彼の苦しみは其処から始まる。そうした飽くなき探求心が彼の信念を大きく揺るがし、崖っ縁へと追い込んだのである。 第一に、「毛人」という表記が問題だった。これは明らかに毛深い人の意味であり、エゾの容貌を思わせる。 日本書紀の景行紀には、エミシに付いて、多毛で文身（入れ墨）などの特徴が記されている。 更に、中国最古の地理誌、と言われる山海経の海外東経の部分には、日本列島の事を紹介したものと思われる記事が在り、 その東北には毛民の国があると記されていた。毛人とエミシ（エゾ）との間には、深い関わりが在りそうである。 そして、第二の問題は「愛瀰詩」の意味の解釈だった。どう見ても単に「強い人」の意味とは思え無い。 もっと奥深い意味も在りそうだった。「愛瀰詩」は日本書紀の神武紀に、その文字が記されている。 神武軍の大来目部が畿内に根を張る八十建の残党を酒に酔わせた上で襲い、絶滅させた時の歌謡である。 「愛瀰詩は一人で百人力と人は言う、だが、我々の前には手も足も出ない、我々はもっと強いのだ！」 ほぼ、このような内容の戦勝の歌である。実は酒に酔わせ、動け無くして置いたのだが、 勝利の歌としては、こう成るのだろう。 ところで、愛瀰詩が強い人の意味である、とされたのは、八十建（ヤソタケル）の呼称に由来するものと思われる。 これは多くの荒々しい者達という意味であるから、大和は愛瀰詩をそのよう目で見たのだろう。 八十建はその象徴として語られた、想像上の人物、と考えられた。
	そして、この戦勝の歌でも一人で百人力、とされている。やはり、強い人の意味なのだろう。 一般的には、そのような解釈が定着していた。だが、野上には、それがしっくりとはし無かった。 彼は躊躇をしながらも、自分で推理を組み立て直した。 野上は今までの推理から、愛瀰詩は八十建に象徴される共同体、あるいは部族などを表す、と考えた。 ならば、愛瀰詩本来の意味は別に在るようにも思われる。八十建は強い人の意味にかなり近いが、 倭人は彼等を八十族などとは呼んでは居ない。あくまでも愛瀰詩、と呼んで居る。 それとも、やはり、愛瀰詩は強い人の意味なのだろうか？ だが、味方の勇者を愛瀰詩と呼んだ例は見当たら無い。 僅かに、人名に使われただけだった。愛瀰詩にはやはり、もっと別の、奥深い意味が在りそうである。 野上は蝦夷本来の意味を探り始めた。
	蛮族を意味する愛瀰詩と強い人を意味する愛瀰詩、そして、その背後に在る、と思われる本来の意味。 それらの繋がりを見付ける事が問題を解き明かす鍵だった。そして、彼の魂はやはり、その鍵を記紀に求めた。 野上は天尊族の東征を事実である、と考えていた。八十建の記事も、その過程を象徴的に表現したものと考えている。 そして、其処にはエミシが愛瀰詩の表記で記されていた。また、これが文献に見える最古のエミシでもあるのであった。 また、八十建の話が史実を表して居るのなら、畿内はエミシの縄張りだった。其処に大和が東征し、エミシと戦い、 畿内を奪った。そう考えるのが自然であった。本来的なエミシの意味は、やはりこの関係の中に在りそうだった。
Cotosiro