第十六章　第二話
	揺らぎの現実
	「やはり、これは言代主の仕業じゃ在りませんね、もっと大きな力が関わって居るような気がします」 坂崎が抑えた声でそう言った。影浦が言った。「けど、単なる自然現象でも無さそうだしな、祟り神に関係が無い、 とも言い切れんぞ？」 実は此の処、日本列島の各ヶ所で不可解極まる現象が頻発していた。昨日と今日との現実、あるいは、 一時間前と今との現実に、微妙なズレが起き始めている。 それを誇張をして述べるのなら、今し方、九州で 仕事をして居る人間が次の瞬間には東京で電車に乗って居り、また、次の瞬間か、あるいは同時刻には、 何処かのレストランで食事をしている、などと言う、全くの出鱈目に見える現象だった。 しかも、それは瞬事に移動をしたのでも無く、本人も、そう成った事には気付いて居ない。彼の現実と記憶とが シンクロしながら、迷走をして居るとしか思え無かった。時空が到る処で絶ち切られ、其処に別の時空が割り込んでいる。 いや、多くの時空の断片がモザイク状に連なっている。影浦には、そんな具合にも思われた。 だが、それにしては妙な事も多々、在った。別の時空にも関わらず、音でも光でも波動で在れば、 何でも其処を行き来が出来るのである。その故に、別の時空を自分の居る時空と同じ様に、見たり聞いたり出来るのだった。 だが、物理的な存在が変化もせずに時空を越えてまで伝わるだろうか？ 常識的には考え難い。時空のモザイクと見えるのは 実は表面的な認識で、もっと別の原因が潜んで居る様にも思われた。 祟りの神々の呪いであるのか？ 宇宙崩壊の前触れなのか？ いずれにしても、想像を絶する異様な事態が今、 まさに此処で進行していた。今の所、実際のその様な現象は些細なものに過ぎず、多くの人は気付いて居ない。 もっとも、現実が変われば記憶もその様に変わるのであるから、気が付く事はその限りに於いては不可能だった。
		例えば、九州で食事をして居る人間がその現実から、東京の現実へと移行をすると、記憶も同じく、 東京の現実へと移るのである。しかも、その記憶は東京の現実世界に生まれ落ちてから電車に乗るまでの記憶であり、 以前の世界、つまり、九州での記憶はきれいさっぱりと消える、と言う実に不可解なものだった。 実際に今、その様な奇怪な現象は物体が瞬時にズレる程には拡大している。それはミクロの単位でしか無く、 肉眼での識別は困難だったが、その影響は少なく無かった。 特に記憶や記録に関するものには、その状況が顕著に見られる。 文字のみならず、内容すらも変わるのだった。今、怪しげな何かは確かに勢いを増しつつあった。
	無論、人はその様な状況下には置かれても、各々は矛盾無き記憶を 持ち併せている。だが、同じ世界の記憶とは限らず、記憶と現実とに違いが出来ても、少しの不思議も無いのであった。 いや、現に今、それは密かに進行している。多少の疑念を感ずる者も僅かながら増えつつあった。 だが、その多くは書き間違い、記憶違いで片付けられる。場合によっては、書類の内容の変化に伴い、 そのコピーや関連書類、あるいは記憶までもが、やはり変わるからだった。 奇妙な事だが、今の時空のモザイクは認識の整合性を壊さぬように、進行するかにも思われる。単なる物理現象 とも思えぬのである。意図的な物すら感じ取られた。そして、今、些細な行き違いは急増している。 その所為で、訳の分からぬ妙な不安が人々の心を覆い始めた。 確かに今、人々はほぼ同じ現実を生きている。だが、この現象が顕著に成れば、現実と記憶とが遊離をし、 恐ろしい事態とも成りそうだった。「宇宙そのものの気が触れたのでは無いのか！」そんな想像すら脳裏を過ぎる。 いずれにしても、不可解な現象が巷を覆い、混乱をするのに違い無かった。 例えば、ある会社の課長が出社をすると、昨日、事故で死んだ筈の部下、Ａが何食わぬ顔で出社をしている。 そんな事態も起こり得た。無論、課長は驚くだろう。気が弱ければ、失神する事も無くは無かった。 だが、それは課長の現実であり、部下、Ａの現実では、昨日は何事も無く帰宅していたのである。 また、見知らぬ男、Ｂが平然と出社をし、部下、Ａの席に腰を掛け、仕事を始める事も考えられた。 その男、Ｂの現実では、昔からの社員であって、Ｂに取っては日常である。だが、課長の現実では、Ｂは見も 知らぬ赤の他人であった。警備員などを呼び出して、摘み出す事は明らかだった。 これをこの儘にして放置をしたなら、日本の社会そのものが崩壊すらもし兼ねぬのである。早急に気付かせる事が必要だった。
	だが、如何にしたなら気付くのだろうか？ 極めて不可解な現象なだけに、至難の業とは思われた。 やはり、これも自分等だけで解決をするしか無いのだろうか？ 寂しい想いが胸を過ぎった。 そして、実を言えばもうひとつ、其処から派生をする別の問題も横たわっていた。諸外国のそんな日本への対応である。 今の所、この現象は日本国内に留まって居り、諸外国は本来の現実から日本を見て居る。日本での整合性の無い現象 はすぐに知れる筈だった。世界はその時、日本をどう扱うのだろう？ 果たして、救おうとするのだろうか？ むしろ、その現象が地球規模に広がらぬ内に、抹殺しようとするのでは無いのか！ いずれにしても、 日本の国家は未曾有の危機に在るのであった。
	影浦が言った。「けど、単純な物理現象では無さそうだし、むしろ、可能世界に関係する様に思うんだ、それぞれの 世界が絡み合ってる感じなんだよ」と、坂崎が怪訝な顔で影浦を見た。「ハア？ 何です？ その可能世界って」 「うん、例えば、今、腹は減ってるが、忙しい、で、取り合えず、茶漬けを食べた、これを現実とする」 「あ、茶漬けですか？」「ん？ トーストでも良いけど？ とにかく、時間が在れば、レストランにでも行ったのかも知れ無い」 「なるほど、選択肢は幾らも在る？」「うん、その選択肢のどれかが現実に成るんだ」 「今の場合は茶漬けを食べた事が現実、と成る？」 「うん、つまり、可能世界は現実以外の可能性の世界らしい、この場合だと、ラーメンを食う可能世界、パンを 食う可能世界、エトセトラ　・　・　」 だが、坂崎には少し奇妙にも思われた。可能世界はあくまでも可能性の世界であるから、現実的には存在しない。 存在をしないものが現実世界と絡み合ったりするのだろうか？「それは妙ではないですか？」坂崎はそう問い掛けた。 無論、影浦もそのような反論は予想している。可能な世界は現実などでは在り得ない。だが、実在である事は考えられた。 可能世界は元々は様相論理、とか言う一種の集合論的論理体系から出た概念だ、と言う。 そして、様相論理とは、必然的な、とか、可能的な、とか言う、その様な概念の論理的振る舞いを規定するものであるのらしい。 中身はさっぱり分からぬが、其処から産まれた、いわば方便としての可能世界が今や実在の話にまで成ってるらしい。 「ヘエー、物理学の平行宇宙論みたいですね」 「うん、今、起こっている現象は常識では計り知れ無い、突飛な考え方も必要かも知れんよ？」 「でも、現実って言うのは、何かの原因が在って、その結果、現実と成ったんです、物事って言うのは必然的に 決まるものでは無いんでしょうか？ 我々の決断にしたって、それなりの原因は在る、と思うんです」
		確かに坂崎の話は頷ける。だが、現実が必然のみで出来て居るなら、生きる事など詰まらなかった。 影浦は反論の機会を窺いながら、坂崎の話を聞いていた。 坂崎は言う。「我々の浅い知識では、どんな決断が何故、 為されたのか？ どんな結果がもたらされるのか、はっきりとした事など分かりません、ですから、可能性などと 言う言葉で誤魔化すんです、可能世界など在りませんよ」 どうやら、坂崎相舜は機械的運命論者の様だった。彼は株式投資を生業としている。そして、投資の失敗などは一度も無い、 とも豪語していた。つまり、彼は必然を洞察し、株式投資をして居るのである。必然にこだわる彼の姿勢が分かる様にも思われた。
	影浦は言った。「なるほど、此処で二人が議論をするのも宇宙の誕生と共に決められている？」 「エエ、人間の内的条件も含めて、全ての条件を把握出来れば、予測は可能と思うんです、可能性というのは、 不完全な認識を補完する道具である、としか思えません」「なるほど？ 全ては必然で在って、可能性などは在り得ない、 だから、可能世界も在り得ない？」影浦は多少、皮肉っぽく、そう問うた。 と、坂崎が、「その通りです」と、駄目を押す。態度からして、少しの疑念も無いのらしい。影浦は少し考え込んだ。 坂崎の意見そのものよりは、割り切りの良さが気に入らぬのである。 影浦は言った。「うん、全くの同条件で何かをすれば、その結果は何回、遣っても変わらない、けど、其処に、 別の世界から無秩序に何かが影響したなら、結果は当然、違って来る、そうだろ？」坂崎は疑わしそうに聞いて居る。 影浦は知らぬ顔で話を続けた。対電子（一対の電子と陽電子)に付いての話である。 物理学では、それがあらゆる空間にランダムに現れる、と説明している。尤も対電子は極めて接近して現れるので、 すぐに反応して消え失せる瞬間的な現象だ、と言う。そして、それは此の宇宙の因果の産物では無い節も窺えるのである。 つまり、別の世界から遣って来る他世界のエネルギーとも言えそうだった。 だが、それは紛れも無いエネルギーであり、この世界のエネルギーと異質では無い。つまり、同様の働きをするのである。 従って、此の宇宙に元々、存在する素粒子がその対電子に衝突する事は可能であり、反応を起こす事も推測できた。 ならば、突然に現れた対電子と、宇宙に元々、在った粒子との衝突は果たして予測可能だろうか ？ 必然、と言って良いのだろうか？ 「だから、可能性、という概念も、誤魔化しとは思えんのだが、どう思う？」 影浦は覗き込む様に、そう問うた。
	だが、坂崎は言う。「でも、その電子と陽電子の一対が一定の空間に、ある確率で現れる、と考えると、どう成るでしょう？」 「ん？」影浦は意外な反応に戸惑った。すると、坂崎は自信ありげに自分の考えを話し始めた。 坂崎によれば、この宇宙に存在する素粒子の軌道は、その因果と論理とにより、必然的に決められていた。 ならば、ある確率で現れた対電子に、その素粒子が衝突をして、反応を起こした時の現象は予測可能と思われる。 ならば、それは必然、と呼ぶべき事象であった。 そして、坂崎は追い打ちを掛ける様に、こう言った。「ひょっとしますと、衝突しそうな所には、対電子は現れぬ のかも知れません、あるいは、対電子の出現も必然なのかも知れませんし　・　・　」どうも議論が噛み合わない。 「まあ、ちょっと待ってよ！」影浦は慌てて話を遮った。
	此処はやはり可能性と必然性、そして、確率の概念を決めて置く事が必要である。議論の為には二人の共通の認識が 必要だった。影浦はその事を少し指摘して、自分の認識を語り始めた。 影浦に言わせると、一定の条件を考慮して、唯一の結論しか出て来ない性質が必然性であり、幾つかの結論の考えられる 物が可能性であった。確率は、その可能性が実現し得る割合である。従って、その割合が百パーセントの場合、 それは即ち必然だった。坂崎も、其処には異論も無さそうである。「そうでしょうね」と、同意した。 影浦が言った。「つまり、必然性は可能性の特殊な状態である、と言う事だよね？ だから、必然性も可能性なんだよ、 現実は実は、可能世界のひとつなのかも知れ無い、そうだろ？」 「でも、必然というのは、現実そのものでは在りませんよ？ 必ず実現される、という意味です、ですから、 この現実世界は可能世界では在りません」尤もである。影浦はすぐにその意見を引っ込めた。 だが、必然性は可能性の中のたったひとつの状態でしか無い。そのたったひとつの状態が現実を決める、 などとも思え無かった。つまり、必然性という概念は現実からの後講釈であり、多くの可能的な世界から、 現実と成った可能的世界を取り出しただけなのかも知れぬのである。影浦はふと、そんな印象も、持つのであった。 そして、個別的な問題と、総体としての問題は分けて考える事も必要だった。例を出すまでも無かったが、 思い付いたものは仕方が無い。影浦は痩せ薬の開発を例に取り、自分の考えを話し始めた。 ある製薬会社で、痩せ薬の開発が進められ、有効な物質が見付かった。そこで、有意な数のウサギをその験体として使用した。 すると、その八十パーセントに効果が見られた。つまり、八十パーセントのウサギには、必然的に効果の現れる事が確かめられた。
		だが、残りの二十パーセントに何故、利かぬのかは分から無かった。従って、個々のウサギに対しては、 薬を与えてみなければ、効果のほどは確認出来ない。つまり、総体では必然で在っても、個別的には可能性でしか論じられ無い。 「だから、個と全体とを一緒にすると、詰まらぬ間違いにも陥り易い、だろ？」 と、坂崎が言った。「エエ、そうですね、でも、それは情報不足の産物で、必然への過程、とでも言うべきものです、 薬の利かぬ条件が分かれば個々のウサギに付いても語れるんですから」 「いや、これは個と全体の違いを浮き彫りにさせる例だから、可能性が必然性に集約されるのか、どうかは、 これからの問題だよ、けど、その前に、少し考えねば為らない事が在るんだ」
	影浦は可能性などの概念の設定に当たって、一定の条件を考慮して、というひとつの枠を填めていた。 だが、此処には大きな落とし穴が隠されている。現実の問題に対した場合、その予測には数多くの情報が必要だった。 一定の条件を考慮して、というのは、実はその予測や推理を成し得る最低限の情報を意味するのに過ぎ無い。 その枠のみで議論し得る問題だろうか？可能性実現の割合が計算上、たとえ十割であっても、その背後には 不確定な条件が必ず存在する様にも思うのである。 必然性は設定された条件の枠内にこそ成り立つ概念なのでは無いのか？ 従って、本当の意味の必然はやはり、現実の後解釈に過ぎず、ある現象の起こる可能性を絶対化して、 必然と言っているのでは無いのか？ つまり、本当の必然性などは存在せず、可能性が在るだけでは無いのか？ 必然性も可能性も未来についての認識である。 しかし、必然性は他の可能性を排除する。それは間違いではないのか？ 可能性の消失は、その現象が起こると予測 される時間に現実が到達した瞬間でしか、起こり得ぬのではないのか？ その様な疑念も湧くのであった。 少なくとも人間に取って、必然などは在り得ない。いや、認識不能な何かが在って、それが其処に介在し、 可能性を現実へと導くのでは無いのか？ 時として、我々の言う必然を現実とせぬのは、その証なのでは無いのか？ 影浦にはその様にも思われた。 だが、坂崎はそうは思わぬらしい。現実は客観的に確定して居り、ただ人間が知り得ぬだけである、と彼は言う。 無論、影浦の言う認識不能な存在も同様である。その作用も、やはり必然的に決まるのである。 影浦は言った。「けど、その必然とは誰に取っての必然だろう？」と、坂崎が一瞬、戸惑った。 意味するところが理解出来ない。「はあ？ それは客観的なものでしょう？ 誰のって言われても」と、首を傾げる。 影浦が言った。「なら、その客観とは、どんな客観かな？人間では到達の出来ぬ客観だから神のかな？客観の主体は何だろう？」
	「エッ、どう言う事です？」坂崎が訝しそうに、そう問うた。普通、客観的事実、と言った場合、 それは誰から見ても、そうで在る、という意味で使われる。そして、その様に認識するのは個々人であり、 客観的な認識も、その上にこそ成り立っていた。 だが、坂崎の言う客観的な必然は一体、誰の必然だろう？ 坂崎に拠れば、我々の知り得ぬ客観的必然であるから、 少なくとも人間のものでは無いだろう。そして、おそらくは神のものでも無いのである。 全てが必然で在るのなら神の存在など必要ない。 「だから、必然という概念は目に見える極、限られた部分にしか適用出来んのじゃ無いのかな、 その事が必然性が可能性の特異な形である理由かも知れん、いや、私はそう思う」影浦はそう言葉を括った。
Cotosiro