可能世界・陰の神話 第八章第一話		呼び掛ける美穂 This was revised in December 3, 2006. This was revised in September 7, 2008.		野口博正の提供による 　あるひとつの可能世界
	昇は例の如く、縁側に出て、ごろ寝をしていた。もう、四時間にも成るのだろうか？ふと、気が付くと、カラスの鳴き声が騒がしい。昇はふっと、目を開けて、身体を起こすと、山の稜線を仰ぎ見た。西に傾いた太陽が棚引く雲を茜に染めて、幾筋かの光線を放射している。以前の昇であったなら、其処に幾分かの安堵を感じて、眺め入った筈だった。だが、今の昇は全く違う。眩しそうに顔を背けて、庭の隅をボーッと、見つめた。辺りでは、カラスが頻と鳴き交わして、山へ帰ろう、と、呼び掛けている。茜の空を旋回しながら、しばしば、それは集散をして、群の形を作って行った。昇はその有様を目にすると、気怠そうに動き始めた。だが、その顔付きに生気はない。顔色も異様に青白く、浮腫がある様に思われた。だが、それは病の所為などでは無く、心の在り様の問題らしい。ジョギングをしようと言う気力すら、とうの昔に失せ果てて居る。今の昇は前にも増して、怠惰な生活へと落ち込んでいた。 昇は其処に立ち上がると、ノロノロとした動作で雨戸を閉めた。そして、すぐさま明かりを灯すと、煎餅布団へと転がり込んだ。部屋の中には、何も無い。粗末な丸い飯台と、敷かれっ放しの万年床が裸電球に照らされて、寂しげに灯りを反射していた。たまにはテレビも見たい、と思うが、かなり以前に故障して、ほったらかしに成っている。此の処の昇は夜に成ると、布団の上で、ただ、ゴロゴロと、退屈で長い孤独な時間を、堪え続けるのが常だった。だが、何もしなくても、腹は減る。「さて、飯でも食うか？」昇は投げやりに、そう呟くと、気怠そうに体を起こした。 とは言っても、今、彼の家にある食料はくず米と畑で取った野菜が少々、調味料は味噌と醤油があるだけである。此の処、外に出るのがおっくうで、買い物などへも行っては居ない。副食と成るものは殆ど、無かった。実を言えば、このところ、炊事はおろか、食事を取る事すら、面倒なのである。だが、腹が減ると、やはり、辛い。彼は手荒に米を研ぐと、ぶつ切りにした大根を味噌と一緒に混ぜ込んだ。後は、炊飯器にお任せである。「まあ、寝てばっかだから、これで保つだろう？」昇はふっと、ため息混じりに、自嘲気味に呟いた。 彼はこれから、恐ろしい夜を迎えなければ為らない。あの憎悪の念が得体の知れぬ魔物と成って、彼を悩ませるからだった。実を言えば、あの淫靡な快楽を知らしめた怪しげな女、美穂が、昇の前から姿を消した。そして、それ以来、何の連絡もして来ない。「何で、来てはくれ無いんだろう？」昇は日毎、事ある毎に、美穂の姿を想い返した。意に染まぬ結果をもたらした、とは言え、美浦の祈祷は生き甲斐だった。憎悪の念は消え無かったが、一旦は淫靡な快楽を呼び覚まして、昇は其処に浸ったのである。そして、邪な欲望と罪の意識の、心の葛藤は消え失せた。だが、美穂が姿を消して以来、その様な心の葛藤と、時折、現れる怪しい魔物が更に忌まわしさを倍増させて、昇を襲って、悩ませ始めた。「美穂が居ないからだ、美穂が来れば、救われる」その様な想いが日毎に募って、美穂への恋慕を掻き立てたのである。昇に取って、南方美穂は地獄に快楽を見出せしめる悪鬼でもあり、神でもあった。 昇は食事を済ませると、後片付けもそこそこに、逃げる様に床へと入った。落ち着かぬ昼と恐ろしい夜、その狭間の一時だけが僅かな安息を約束している。だが、それも束の間、すぐに恐ろしい夜が遣って来た。憎悪の念が牙を剥く。また、その事に対する不安や恐れが執拗に彼を責め立てた。肩の辺りが妙に冷たい。昇は膝を抱えると、頭まで毛布を引き上げた。気休めである事は承知している。だが、そうでもせぬと、落ち着かなかった。そうしていれば、やがて、睡魔が遣って来る。何時、魔物が夢に現れて、襲って来るかは分からぬけれども、今の昇には、冷たくて辛い現実よりは夢の方がましなのだった。夢の欠片が脳裏を過ぎる。混沌がぼんやりとしたイメージを作り始めた。だが、それは夢には成り切れぬ夢である。泥沼の様な暗闇に一瞬、ふっと浮き上がる薄ぼんやりとした幻だった。昇はそんな幻をただ、ふらふらと渡り歩いて、当て所も無しに彷徨い惑った。 だが、彼は何を探しているのだろうか？何を求めているのだろうか？あるいは美穂の幻だろうか？それとも、恐怖に翻弄されて、逃げ惑っているだけなのか？彼自身、それに付いては、何も知らない。彼はただ、陰鬱な幻と闇の狭間を行く当てもなしに、歩いたのである。無論、其処には、確かなものなどまるで無く、闇の淀みがあるだけである。もしも、気などを緩めたならば、闇の淀みが魔物を産んで、忽ち、彼を襲うのだった。たとえ、好ましい夢ではあっても、何時、豹変するか分から無い。夢に現れる闇の淀みは、そんな疑心の産物だった。そして、彼はその中で、美穂との思い出に浸ったのである。 奈落を見せた鬼女ではあったが、彼女以外、縋るべきものは他には無かった。美浦との想い出に浸って居れば、一時とは言え、忌まわしい恐れも忘却できる。僅かな希望も持てるのだった。昇はひたすら、美穂との事を想い続けた。だが、同じ美穂との想い出が彼をひどく苦しめた。淫靡な快楽の残像が麻薬の様に彼を苛む。「ああ、いっそ、狂って仕舞おうか！」そうすれば、苦しみからは解放される。憎悪の虜とは成るのだろうが、それなら、それで良いでは無いか！殺人だろうが、何であろうが、気が触れた所為なのなら、自分は知ら無い。「俺の所為じゃあないもんな！」このところ、しばしば、その様な言葉が口を吐く。そして、それはもはや、昇の実感だった。事実、狂気はすぐ其処にまで迫って来ている。見るもの聞くもの、全てが何故か忌まわしく、恐ろしい物に思えるのである。丹誠込めて、やっと育てた赤い実を付ける柿木にすら、魔性の臭いが感じ取られた。「もう、狂って居るのかも知れ無い」昇はまどろみの中で、絶望していた。瞼の裏で、美穂が笑った。 何時しか、昇は深い眠りに入って仕舞った。だが、不安や恐れは消えてはくれ無い。彼は漆黒の暗闇で、蹲る様に身構えていた。心が怯えで、僅かに揺れると、闇の向こうで、何かが蠢く。「何だろう？」昇は恐れを感じながらも、闇の揺らぎをジッ、と見詰めた。だが、定かな形は見えては来ない。「恐ろしいと思うから、いけないんだ」彼は其処から目線を反らすと、別の夢へと逃げ込んだ。だが、妙である。其処には、靄が立ち篭めていて、彼の視界を遮っている。恐れを感じて、身を竦めると、奇妙にも、懐かしい香りが鼻を掠めた。「あ、匂い袋だ！」それは紛いも無く、待ちに待ちこがれた美穂の発散する芳香である。美穂への想いが一挙に溢れて、昇の胸を締め付けた。気が付くと、女の声が呼んでいる。忘れもしない美穂の声に間違い無かった。「ああ、あの時と同じだ」昇は夢の中で、呟いた。初めて、美穂が訪れた時、昇は始め、夢だ、と思った。だが、それは夢でも幻でも無く、紛う事の無い現実だった。そして、今、またしても、美穂が呼んでいる。「美穂だ！美穂が戻ったんだ！」彼は一気に夢から覚めると、布団を跳ね上げて、土間へと走った。 だが、本当に、美穂であろうか？彼は戸口にまで来て、不安に成った。「悪霊なのかも知れ無い！きっと、あれは声色なのだ！」迂闊に戸などを開けたなら、八つ裂きにされぬ、とも限らない。だが、美浦かも知れ無い。彼は戸口の前で、どうしようか、と、逡巡していた。と、戸板を通して、懐かしい声が呼び掛ける。「山岸さん、戻って来たのですよ？早く開けて下さいな、さあ、早く！」その声は紛いも無い、美穂本人のものである。「美穂の姿をしてるなら、悪霊だって、構うものか！」昇は堪え切れずに戸を開けた。が、何故だろう？美穂の姿は其処には、見えない。妙な風が吹き抜けて、砂塵が舞い込むだけである。深夜のしんしんとした静けさが言い知れぬ妖気を漂わせていた。「くそっ、悪霊だったのに違い無い！だまされたのだ！」昇はすぐさま戸を閉じて、震える指で錠を下ろした。身体が異様に冷たく感じる。「悪霊が出る前に、早く眠ろう」昇は急いで、踵を返した。 だが、部屋に戻ろう、と、土間から上がると、部屋の裸の電球が突然、チカチカッと、怪しく瞬く。昇が、「故障か？」と、顔を上げると、裸の電球が点滅しながら、スウーッ、と闇へと溶け込んだ。もはや、部屋の中は真っ暗である。そして、昇の気の所為だろうか？真っ暗な部屋の片隅に、怪しい気配が感じ取られる。「悪霊か？」昇は淀んだ暗闇を眼を凝らして、ジッ、と見つめた。と、どうした事か？闇がさわさわと、蠢いている。見る間に、部屋の一角に、怪しいシルエットが醸し出された。輪郭は定かではなかったけれども、見たところ、人の様な影法師である。そして、異様なその影はまるで魔物か何かの様に怪しい動きで、蠢き始めた。果たして、それは何であるのか？悪霊なのか？魔物であるのか？昇は恐れを感じる事も忘れて、怪しい影を見つめ続けた。怪しい影はじりじりと、昇の方へと近付いている。昇が思わず、退くと、真っ暗な闇のただ中に、二つの眼が見開いた。怪しげな、緑に光る眼であった。 「ああ、どうしよう、やはり、悪霊だ、悪霊を呼んで仕舞った！」昇はやおら、踵を返すと、土間に必死で、飛び降りた。そして、力任せに戸を引いた。だが、開け慣れた筈の引き戸が、軋むばかりで、全く開かない。背後には、何者かの気配が迫りつつある。彼は恐れ戦きながら、夢中で、引き戸を引っ張り続けた。と、怪しい冷気が彼の背中に吹き付ける。悪霊の吐息に違いない。「ああ、取り殺される！」昇は体を硬くした。だが、その吐息は少し妙である。ふっと、芳香が鼻を掠める。「ン？この匂いは？」昇は思わず、振り向いた。と、其処には、着物の女が佇んでいる。「あっ、美穂じゃ無いか！」昇の顔に赤みが注した。「けど、何時、家に入ったんだ？」昇は少し妙に思った。だが、その疑問はさほど、意識には上っていない。「早く、この腕に抱きしめたい！」昇はその一心で、まるで子供か何かの様に、美浦の側へと駆け寄った。 だが、美穂の態度は不可解である。鋭い眼で、昇を見据える。「エッ、何だ？」昇は一瞬、気を押され、歩みを留めて、美穂を見た。美穂が言った。「あなたはまだ、分から無いのですね！何故、逃げるのです？何故、受け入れようとはし無いのですか！」「エッ？逃げてなんか居ないじゃ無いか！」昇には、さっぱり訳が分からない。いや、美穂を抱く事しか、意識に無い。美穂の発する芳香が執拗に鼻を擽って、柔らかな肢体を想像させた。「こうする為に来たんだろ？」昇は有無を言わせずに、美穂の身体へと襲い掛かった。が、何故だろう？彼の荒々しい両腕は空を抱くだけである。愛しい美穂が消えていた。そして、何処か遠くから、美穂の声だけがこだました。「私の元へ、いらっしゃい？早く、早く、いらっしゃい？」そして、その声も徐々に遠退き、闇のただ中へと消え入った。昇は寂しい現実へと取り残された。
Cotosiro