可能世界・陰の神話 第八章第一話		呼び掛ける美穂 This was revised in October 27, 2010. This was revised in February 11, 2012.		野口博正の提供による 　あるひとつの可能世界
	昇は今、縁側に出て、ごろ寝をしている。退屈で落ち付かぬ昼間の時間を、例のごとく、ただ、漫然と、浪費していた。もう、四時間ほどは経つであろうか？昇の無意識はどうやら、眠りに飽きたらしい。彼は幻夢の淵から浮上を始めた。と、妙な焦燥感が心を過ぎる。昇はその焦燥感に抵抗して、知らぬ間に、歯ぎしりしていた。此の処、しばしば、起こる症状である。顎の付け根に痛みが走って、何時もの様に、目覚めてしまった。薄目を開けると、黄昏色の光線が無遠慮に眼に差し込む。「チッ、もう、夕方か？」昇は不承不承、身体を起こすと、山の稜線を仰ぎ見た。西に傾いた太陽が棚引く雲を茜に染めて、幾筋かの光線を放射している。以前の昇であったなら、其処に、幾分かの安堵を感じて、眺め入った筈だった。 だが、今の昇は、その様な安堵感など、感じていない。眩しそうに顔を背けて、庭の隅をうつろな眼で、ボーッと、見つめるだけである。辺りでは、カラスが頻と鳴き交わして、山へ帰ろう、と呼び掛けている。昇はふと、その鳴き声に釣られるように、再び、空へと目線を遣った。見ると、旋回するカラスが増え始めている。集散を幾たびか、繰り返しては、群の形を作っていった。と、何故だろう？言い知れぬ疎外感が昇を苛む。彼は咄嗟に、カラスの群れから目線を外した。そして、気怠そうに腰を上げると、玄関の方に歩み始めた。その表情に生気は見られず、顔色も異様に青白い。浮腫が在る様にも思われた。だが、それは病の所為では無く、心の在り様の問題らしい。もはや、ジョギングする気力も、失せてしまって、生活は前にも増して、怠惰なものへと落ち込んでいた。 昇は用を足して、縁側に戻ると、ノロノロとした動作で雨戸を閉めた。そして、障子を閉めて、明かりを灯すと、取りあえず、煎餅布団へと転がり込んだ。部屋の中には、何も無い。粗末な丸い飯台と、敷かれっ放しの万年床が裸電球に照らされて、寂しげな灯りを反射している。たまには、テレビでも見たい、と思うが、かなり以前に故障して、ほったらかしに成っている。此の処、昇は夜に成ると、布団の上で、ただ、ゴロゴロと、退屈で長い孤独な時間を、堪え続けるのが常だった。だが、生身の人間の悲しさで、何もしなくても、腹は減る。「仕方ない、飯でも食うか？」彼は投げやりに、そう呟くと、ノロノロとした動作で、体を起こした。 とは言っても、今、家にあるのはくず米と畑で取れた野菜が少々、後は、味噌と醤油があるだけである。此の処、外に出るのも、おっくうで、買い物などへも行っては居ない。副食などは何も無かった。彼は手荒に米を研ぐと、炊飯器に移して、ぶつ切りにした大根と、なけなしの味噌を混ぜ込んだ。そして、無造作に、スイッチを入れた。とても、料理とは言えない代物である。カロリーも、足りているとは思えない。「まあ、寝てばっかだから、保つだろう？」昇はふっと、ため息混じりに、自嘲気味に呟いた。 彼はこれから、恐ろしい夜を迎えねば為らない。あの忌まわしい憎悪の念が得体の知れぬ魔物と成って、彼を悩ませるからだった。実を言えば、あの淫靡な快楽を知らしめた怪しげな女、美穂が、昇の前から姿を消した。そして、それ以来、何の連絡もして来ない。「何で、来てはくれ無いんだろう？」昇は日毎、事ある毎に、美穂の姿を思い返した。意に染まぬ結果をもたらした、とは言え、美穂の祈祷は生き甲斐だった。憎悪の念は消え無かったが、一旦は淫靡な快楽を呼び覚まして、昇は其処に浸ったのである。そして、邪な欲望と罪の意識の、心の葛藤は消え失せた。だが、美穂が姿を消して以来、その様な心の葛藤と、時折、現れる怪しい魔物が更に、忌まわしさを倍増させて、昇を襲って、悩ませ始めた。「美穂が居ないからだ、美穂が来れば、救われる」その様な想いが日を追う毎に心に募って、美穂への恋慕を掻き立てたのである。昇に取って、南方美穂は地獄に快楽を見出せしめる悪鬼でもあり、神でもあった。 昇は食事を済ませると、後片付けもそこそこに、逃げるように床へと入った。落ち着かぬ昼と恐ろしい夜、その狭間の一時だけが、僅かな安息を約束している。だが、それも束の間、すぐに恐ろしい夜が遣って来た。憎悪の念が牙を剥く。また、その事への不安や恐れが執拗に彼を責め立てた。肩の辺りが異様に冷たい。昇は膝を抱え込むと、頭まで毛布を引き上げた。気休めである事は承知している。だが、そうでもせぬと、落ち着かなかった。やがて、睡魔が遣って来る。何時、其処に魔物が現れて、襲って来るかも分からぬけれども、冷たくて辛い現実よりは、夢の方がましなのである。昇は恐れを抱きながらも、結局、睡魔に身体をゆだねた。夢の欠片が脳裏を過ぎる。夢には成り切れぬ夢である。泥沼の様な暗闇に一瞬、ふっと、浮き上がる薄ぼんやりとした幻だった。昇はそんなまどろみを、ただ、当て所も無しに彷徨い惑った。 だが、彼は何を探しているのだろうか？光を探しているのだろうか？あるいは、憎悪に打ち勝つ何かだろうか？それとも、恐怖に翻弄されて、ただ、逃げ惑っているだけなのか？彼自身、その事については何も知らない。彼はただ、陰鬱な幻夢と、そして、虚無を暗示する暗闇を当て所も無しに歩いたのである。だが、彼が其処で目にするものは何時も、不確かな夢、幻と、その幻夢を産み出す闇だけである。しかも、その闇は深くて、怖い。もしも、気などを緩めたならば、闇が魔物を産み出して、忽ち、彼を襲うのだった。たとえ、好ましい夢ではあっても、何時、豹変するか、分から無い。彼の暗い闇の淀みは、そんな疑心の産物だった。そして、彼はその中で、美穂との思い出に浸ったのである。 奈落を見せた鬼女ではあったが、彼女の他に、縋るべきものは何も無かった。美穂との想い出に浸っていれば、一時とは言え、忌まわしい恐れも忘却できる。僅かな希望も持てるのだった。昇はひたすら、美穂との事を想い続けた。だが、その様な美穂との想い出が逆に、彼を苦しめた。淫靡な快楽の残像が麻薬の様に彼を苛む。「ああ、いっそ、狂って仕舞おうか！」そうすれば、苦しみからは解放される。憎悪の虜とは成るのだろうが、それならそれで、良いでは無いか！殺人だろうが、何であろうが、気が触れた所為であるのなら、自分は知ら無い。「俺の所為じゃあないもんな！」昇はそう呟いた。それはもはや、彼の此処、数ヶ月の繰り言である。そして、昇の実感だった。事実、狂気はすぐ、其処にまで、迫って来ている。見るもの聞くもの、全てが何故か、忌まわしく、恐ろしい物にも、思えるのである。唯一、丹誠込めて、実を付けるまでに育て上げた柿木にすら、魔性の臭いを感じるのである。「もう、狂って居るのかも知れ無い」昇はまどろみの中で、呟いた。と、瞼の裏で、美穂が笑った。 何時しか、昇は深い眠りに入って仕舞った。だが、不安や恐れは消えてはいない。彼は漆黒の暗闇で、蹲るように身構えていた。心が怯えで僅かに揺れると、闇の向こうで、何かが蠢く。「悪霊か？」一瞬、背筋に悪寒が走った。だが、眼を幾ら、凝らしても、その姿はどうしても、はっきりしない。闇の淀みがゆらゆらと、怪しく揺れるだけである。「恐ろしいと思うから、いけないんだ」彼は其処から目線を反らすと、別の夢へと逃げ込んだ。と、何故だろう？懐かしい香りが鼻を掠める。「あ、あの匂い袋だ」昇はそう、直感した。美穂への想いがこみ上げる。そして、その熱い想いが昇の胸を締め付けた。昇は幻夢の直中を、美穂を求めて、歩き始めた。と、何処からか、女の声が呼び掛ける。忘れもしない、美穂の声に間違い無かった。「ああ、あの時と同じだ」昇は夢の直中で呟いた。初めて、美穂が訪れた時、昇は始め、夢だ、と思った。だが、それは幻夢では無く、紛う事の無い現実だった。そして、今、またしても、美穂が呼んでいる。「美穂だ！美穂が戻ったんだ！」昇は夢中で布団を跳ね上げると、急いで、土間へと、駆け下りた。 だが、本当に美穂であろうか？彼は戸口にまで、来て、不安に成った。「悪霊なのかも知れ無い！声色なのだ！」迂闊に戸など、開けたなら、八つ裂きにされぬ、とも限ら無い。だが、美穂かも知れ無い。彼は引き戸を前にして、「どうしよう？」と、逡巡していた。すると、戸板を通して、またしても、懐かしい声が呼び掛ける。「山岸さん、戻って来たのですよ？早く開けて下さいな、さあ、早く！」その声は紛いも無い、美穂本人のものである。「美穂の姿をしてるなら、悪霊だって、構うものか！」彼は堪え切れずに戸を開けた。が、何故だろう？美穂の姿は何処にも、見えない。妙な風が戸口をスウッと、吹き抜けて、ただ、砂塵が舞い込むだけである。妙に、しんしんとした静けさが、異様な妖気を漂わせていた。「くそっ、悪霊だったのに違い無い、欺されたのだ！」昇はすぐさま、引き戸を閉じると、震える指で、錠を下ろした。身体が異様に冷たく感じる。「早く眠ろう」昇は急いで、土間を上がった。 だが、どうした事か？部屋の裸電球が突然、チカチカと、怪しく、瞬く。「ん？故障か？」昇は咄嗟に、目を向けた。と、その灯りが、二、三回、何かを語るかの様に点滅した。そして、スウッ、と、消えて行く。部屋の中は、もはや、漆黒の闇である。「悪霊の仕業に違いない」昇は身体が凍り付くのを感じながら、ジッ、と、その場に佇んだ。と、気の所為だろうか？真っ暗な部屋の片隅に、怪しい気配が感じ取られる。「悪霊かもしれない！」昇はその暗闇を、息を潜めて、ジッと、見つめた。と、闇がざわざわと蠢いている。そして、それは凝縮しながら、妙な影法師を作り始めた。見たところ、人の影の様である。昇は恐ろしい、と言う感覚すら、失って、ただ、怪しげな影法師を見つめ続けた。と、真っ黒な人型の顔の辺りに、横に並ぶ、一対の光が現れた。丁度、目が在ると、おぼしき位置である。最初、それは横長のスリットから漏れ出す光であったが、漏れ出す光が弱まると、それはまさしく、二つの目である。切れ長の緑に輝く、見るも恐ろしい眼であった。「ああ、やはり、悪霊だ、悪霊を呼んで仕舞った！逃げなければ！」昇は咄嗟に、土間へと降ると、力任せに戸を引いた。 だが、焦りの為せる業なのか？開け慣れた筈の引き戸はただ、軋むばかりで、全く、開かない。背後には、悪霊の気配が感じ取られる。昇はもう、汗みどろで、開かぬ引き戸を引っ張り続けた。と、背後から、怪しい冷気が漂って来る。悪霊の吐き出す息なのだろうか？逃げ出したいが、身体はもう、凍り付いた様に動かない。「ああ、取り殺される！」昇は一瞬、覚悟を決めて、目を閉じた。と、妙である。今まで、恐怖で気付かなかったが、微かに感じる冷気には、懐かしい芳香が感じ取られる。「あ、匂い袋だ！美穂なのか？」昇はふっと、目を開けて、恐る恐る、振り向いた。と、部屋の中には、着物の女が佇んでいる。「あっ、美穂じゃ無いか！」昇の顔に赤みが注した。「けど、何時、家に入ったんだ？」昇は一瞬、妙に思った。だが、その疑念はさして、意識には、上っていない。「早く、この腕に抱きしめたい！」その一念が確かめるべき疑念をかき消した。昇はまるで、子供の様に、美穂の側へと駆け寄った。 だが、美穂の態度は不可解である。鋭い眼で昇を見据える。「エッ、何だ？」昇は一瞬、気を押されて、歩みを留めて、美穂を見つめた。と、美穂が言う。「あなたはまだ、分から無いのですね！何故、逃げるのです？何故、受け入れようとは、し無いのですか！」だが、昇には、その意味がさっぱり、分からない。いや、考えよう、と言う意識すら、ほとんど無い。美穂の香りが、あの柔らかな肢体を想像させて、昇の情欲をかき立てる。「エッ？逃げてなんか居ないじゃ無いか！」昇は反射的に、そう言った。だが、その様に言った事すら、意識にない。「こうする為に来たんだろ？」昇は有無を言わせずに、美穂の身体へと襲い掛かった。 だが、妙である。彼の荒々しい両腕は空を抱くだけである。気が付くと、愛しい美穂が消えていた。そして、何処か、遠くから、美穂の声だけがこだました。「私の元へ、いらっしゃい？早く、早く、いらっしゃい？」そして、その声も、徐々に遠退くと、闇のただ中へと、消え入った。昇は寂しい現実へと取り残された。
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