可能世界・陰の神話 第十章第一話		草嘉の決断 This was revised in March 3, 2012.		野口博正の提供による 　あるひとつの可能世界
	午後の九時頃、草嘉は残った仕事を片づけ終えると、役所の斜向かいに店を出す、馴染みの居酒屋に立ち寄った。妻が仲間との会食とかで、午後から、家を空けて居り、帰りも、遅く成る、と言う。「夕食に、カレーライスを作ってあるから、チンして、食べてね？」妻は気楽に、そう言った。無論、レンジに掛けるのは、雑作も無いが、問題はそんな事でも、無いだろう？その時は、素直に返事はしたものの、これから、直帰して、チンして、食べるのでは、何としても、味気がない。余り食う気も、起こらなかった。子供等も皆、塾などへ行って、帰りは遅い。閑散とした家は好きでは無かった。 草嘉はカウンターの隅に、腰を掛けると、夕飯代わりの肴をつついた。銚子はすぐに、空に成る。片手を上げて、「もう一本」と、追加した。だが、追加はせいぜい、がんばっても、後、一本である。家のローンは残って居るし、教育費だって、大変なのだ。そして、派手好きな妻もいる。小遣いを計算しながらの注文である。「でも、稼いでいるのは、俺なんだよね？」草嘉は空の銚子に目を遣りながら、思わず、ブツッと、呟いた。こんな時、一人の酒は旨くは無い。「誰か、連れて来るんだったかな？」草嘉は少し、後悔していた。「だが、出費がかさむから、これで、良いのか？」ちょっと、悲しい納得である。このところ、捜査の方も、行き詰まり、難しい状況にも、陥っている。気が付くと、その事ばかりを考えていた。亜真野への疑念は既に、上層部にも、報告しており、捜査の指揮も、任されている。亜真野に、何らかの企ての在る事は状況から見て、確かであるから、上層部も、及び腰ではあるものの、草嘉の提案を容れたのである。 だが、亜真野の意図は果たして、何か？法に触れぬものならば、表立っては動けない。当初、上層部はその範囲に留まるのでは無いのか、と、希望的な観測に、終始していた。だが、草嘉の感触は全く、違う。亜真野等の不可解な行動には、やはり、非合法な陰謀を感じるのである。そして、その様な彼の感触はその後の捜査の進展で、現実感を益々、増した。特に、建比良と猿女の行動は要注意である。公務に名を借りて、頻繁に、怪しげな動きを見せたのである。その時点では、何をしているのかは、不明であったのだが、不法な何事か、である事は窺い知れる。「此処を突こうか？」草嘉は一時、その様に考えた事もあったのである。 だが、相手はあの陰険な亜真野であるから、猿女等を捕らえて、亜真野の動揺を誘おうとしても、馬脚などは現さぬだろう。草嘉は止む無く、猿女達を泳がせて、更に、動きを監視した。既に、草嘉は亜真野に活動資金を提供しているらしい人物、そして、組織などを把握している。密かに、それらを探ってみると、案の定、それらの殆どから、不透明な金が何処かへ、出ていた。交際費、広告費、雑費など、その科目は多岐に渡るが、使途不明金、共々、三、四年前と比べると、急激な増加を見せたのである。どうやら、細かく分散して、入り用に成ると、出すらしい。亜真野に渡った確証はまだ、掴めていないが、いずれも、亜真野の心酔者の関わる組織であるから、その可能性は極めて、高い。だが、強制捜査でも、しなければ、その解明は難しかった。 亜真野の信念は神々の秩序の形式であって、目標はその秩序を社会に具現させて、強化をして行く事だった。その事は中臣などからの情報で、かなり、詳しく分かって来ている。草嘉の感触では、亜真野はそれを非合法な遣り方で、実現しようとして居るらしい。査察局としての見解も、その様なものへと変わって行った。だが、具体的計画が浮かんで来ない。建比良などの監視をしても、その行動は不可解で、意図は依然として、不明なのである。彼等は多くの人間と接触している。初対面が極めて、多い。そして、何故かは知らぬが、その三割がたが、亜真野の親派と成るのであった。 その中には、重要な組織の構成員も、少なくは無い。亜真野が何等かの陰謀を画策しており、支援者を募って居る事はまず、間違い、と見るべきである。「クーデターか、何かの準備だろうか？」草嘉は当初、そう、想像した。だが、調べた所、武器の調達など、為されて居らず、猿女の動向を見ても、防衛庁部内への働きかけや、他の組織への、その類いの動きも、見られない。また、実行部隊とおぼしき組織も、未だ、見付かっては居なかった。亜真野の意図は分からぬ侭に、監視対象の行動だけが益々、活発と成って行く。そして、親派も、益々、増えた。これは極めて、危険な事である。さすがの草嘉も、焦りを覚えた。 だが、建比良等が訪問した人間が何故、僅か、数回の面談で、いとも簡単に、親派と成るのか？成功率は三割ほどであるが、余りにも、効率が良い様に思われる。密かに、脅迫でも、するのだろうか？あるいは、利益誘導か？だが、幾ら、調査をしてみても、その様な事実は出て来ない。ならば、高度な催眠技術か、何かで、マインドコントロールでも、するのだろうか？それとも、中臣の言う霊力の為せる業であるのか？ いずれにしても、亜真野が多くの人間を洗脳して、仲間を増やしつつ在る事はまず、間違いのないところであった。あるいは、その事、自体が目的なのかも知れ無い。国民の全てを洗脳して、神々の秩序を植え付ける。「それが陰謀の本体なのでは無いのか！」草嘉はやがて、そう、考え始めた。そして、その線に沿って、捜査を続けた。 だが、未だに、確証は掴めていない。催眠の物的な証拠など、そう簡単には、見付から無かった。霊力の使用などに至っては、証明のし様も無いのである。だが、計画書などは無いのだろうか？それだけの大きな陰謀ならば、綿密な計画を練らねば為らない。そして、計画の達成具合をチェックする事も、必要である。「計画書は必ず、存在する！」草嘉はそう、確信した。そして、捜査の標的を其処に絞った。 だが、今の所、何の手掛かりも得られて居ない。金の流れは幾分、解明出来たので、脱税などを名目に、捕らえる事は可能と成ったものの、脱税などの立件のみでは、査察局としての面子は丸潰れである。その件に関しては、捜査権を警察に譲らなければならない。下手をすると、その間に、肝心の陰謀に関する重要証拠が消去され無い、とも、言い切れないのである。亜真野の組織の全容が掴めていない今、動き出す事はやはり、問題であった。もし、強制捜査に動いて、組織の壊滅に失敗するなら、問題が複雑化する事は明白である。捜査は進展せず、解決すべき問題ばかりが山積して行く。上層部の苛立ちも、増していた。また、その事が査察局に於ける草嘉の立場を微妙なものとし始めた。今度の事は草嘉が持ち出した問題でもあり、悪くすると、その責任すら、問われ兼ね無い。降格の可能性も、考えられる。だが、彼に取って、怖いのは、降格よりも、何よりも、この件から、外される事だった。「亜真野は、俺が捕まえるんだ！」カウンターの隅で、草嘉はそう、呟いた。 上層部は捜査の進展せぬ事を異常なまでに、怖がっている。あの亜真野が、こそこそと、身辺を探られて、何時までも、気付かぬ、と言う事は考えられない。そして、もしも、気付いたならば、証拠はすぐさま、隠滅して、必ず、何らかの画策をして、報復をして来るのに違いないのである。亜真野には、それだけの力は充分、あった。草嘉は、その様な事情と上層部の苛立ちを良く、理解している。だが、捜査に、焦りは禁物である。腰を据えて、遣らねば為らない。ふっと、時計を見ると、後、数分で、十一時三十分である。終電に乗り遅れては、大変である。草嘉は残りの茶漬けを一気に啜って、手早く、勘定を済ませると、急ぎ足で、駅へと、向かった。 草嘉はその翌日、別の仕事に従事する部下から、奇妙な話を聞かされた。アメリカの大使館が防衛大学に対して、不可解な興味を示している、と言うのである。普通ならば、機密を要する研究成果や教育方針など、とも思われたのだが、どうやら、少し、様子が違う。何を狙っての事なのか？部下達は一様に、首を傾げた。 だが、草嘉には、分かる様に思われた。米国に取って、自国の安全と繁栄を維持する為には、友好国や中立国の、その政治的な安定が重要であり、それは欠く事の許されぬ条件でもある。米国はそれが危機に晒された場合、どの様な手段に訴えてでも、それを守ろうとし、そうも、して来た。たとえ、その国の体制が軍事独裁であったとしても、原則として、その様な姿勢が貫かれている。無論、それは何処の国でも、同じであろうが、他国の体制の問題よりも、自国の国益が優先されたのである。だが、軍事独裁には、必ず、政情不安が付いて回る。そして、それは米国の国益を損ない兼ねない、極めて、厄介な問題でもある。やはり、民主的な体制が望ましいのである。米国はその為に、あらゆる手段を投入していた。 従って、たとえ、友好国に、政変劇の兆候が現れたとしても、それが民主主義への移行に繋がるのなら、阻止する事は希であった。それで、民主主義が定着すれば、歓迎すべき事でもあるし、そうは上手く行かずとも、時間を稼ぐ効果は在った。つまり、友好国の国民が資本主義に愛想を尽かす前に、政権を上手く、交代させて、ガス抜きをさせる訳である。腐った政権を維持するよりは、そうする方が得策である。それがアメリカの遣り方なのである。共産革命などで無いならば、その変革に手を貸しこそすれ、抑える事は希であった。 さて、このような事情から、日本を見ると、今の政権は親米であり、曲がりなりに、民主主義の形も取って、政治的には、安定している。また、経済も、アメリカの脅威と成るまでに、発展して、国民も、差し当たり、自由を謳歌している。全ての国民が本当の自由を知っているのか、どうかは、分からぬけれども、差し当たり、米国にとっては、好ましい状況ではあったのである。だが、米国には、拭い難い懸念が在った。戦後日本の民主主義は戦勝国から、押し付けられて、国民が受け入れた体制である。ただし、国民の大方は喜んで、それを迎え入れたのであり、正しい選択とは言えるのだろう。だが、それは自らが勝ち取ったものでは無く、あくまでも、与えられたものだった。 「他の物を与えられれば、同じ様に、受け入れて仕舞うのでは無いのか？」米国の疑念は其処に在った。もし、好ましからざる政治思想が日本を覆って、人々がそれを受け入れたなら、米国への驚異は計り知れない。アメリカは日本の監視を怠らなかった。アメリカとしては、日本は何時までも、アメリカを慕う良い子であって欲しいのである。無論、今、日本経済の発展は国民の資本主義への支持を取り付けつつある。従って、共産主義、社会主義などへの傾斜の懸念はもはや、殆ど、消失していた。アメリカの一つの懸念は過ぎ去った。だが、別の懸念はなおかつ、残る。全体主義への傾斜という、極めて、根の深い問題である。米国の警戒心は今、その一点に注がれて居た。 おそらく、亜真野はその意味で、最大級の監視対象である。亜真野が動き出した今、米国が動きを見せるのは、当然である、と考えた方が良さそうである。そして、もし、この憶測が当たっているなら、草嘉の捜査への影響も、少なからず、ありそうなのだ。草嘉にとって、これはゆゆしき問題だった。「だが、その様な米国の動きを察知したのは、果たして、自分だけなのだろうか？」草嘉の心に、ふと、その様な疑念が過ぎっていった。特に、情報局が気に成った。もしかすると、草嘉と同様に、勘付いている可能性も、無しとはしない。そして、情報局がそれをどの様に判断して、どの様に動くのか？早計には、断定出来ない。草嘉とは、別の行動を取る事も全く、無い、とは言い切れないのである。 また、情報局には、猿女が居り、その事を知り得る位置に在る。猿女が知れば、それは亜真野の知るところと成る。そう成れば、亜真野は今以上に、ガードを固めるだろう。下手をすると、草嘉の捜査、そのものが覚られない、とも限らない。情報局の動向は是が非でも、把握する事が必要だった。そして、その事は同様に、外務省や公安など、他の組織にも、当て填り兼ねぬ、非常に厄介な問題でもある。捜査を取り巻く状況は一挙に、複雑さを増していた。しかし、草嘉はしたたかである。彼の査察魂は危機的状況に遭遇して、一層、激しく、燃えるのだった。混迷の中には、多くのチャンスが隠されている。それを目敏く見付け出し、素早く、それを掴み取るのだ。「今こそが、チャンスだ！」草嘉はある決断をして、部下を集めた。
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