改訂版　現なる夢　 August 4, 2000 in Justnet. This was shifted to Nifty in November 19, 2003 and revised. This was revised in May 20, 2013. Hiromasa Noguti It is fixed "HTML" in February 14, 2017/ 野口博正
			その三　　瀕死 の 精霊
	私がこの森に住まいしてから、既に、十年もの歳月が経過している。しかし、当初は、これほど、長く居ようなどとは、全く、考えてはいなかった。此処での滞在はあくまでも、旅の一環である。体と心を休ませて、旅の疲れが取れたなら、すぐに、立ち去るつもりであった。だが、精霊の加護の賜だろうか？此処にいると、幻魔は全く、現れず、悪しき予感も湧いては来ない。心が非常に安らいで、落ち着くのである。それで、原野に足を踏み出す決心がなかなか、付かずに、つい、ずるずると、長居する事と成ってしまった。 「一生、此処に居ても、良いのでは無いのか？」と、私はやがて、その様な気分にも、成ったのである。あえて、荒れ野に踏み出して、魔性のものと遭遇するほどの危険まで、冒して、幾ばくかの真実を知ったとしても、それが果たして、何に成ろうか？悪鬼や魔物の妨害は余りにも、過酷である。にも拘わらず、今まで、見つけ出した真実は私を強くはしなかった。そして、何の利益も、もたらさなかった。ただ、過酷な旅を更に、強いただけである。そんな生活はもう、ご免だ、と言うのが当時の偽らざる心境だった。 実を言えば、ここに居着いてから数年後、何故かは知らないが、あの金色のモグラと亡霊の姿がふとした切っ掛けで、脳裏を過ぎる、と言う状況が長く続いた。そして、その姿は必ず、旅を続けていた頃の自分の姿とオーバーラップする。それは無論、私の、真実を探す旅の結末が、あのモグラと亡霊の姿に象徴される様に、感じられたからだった。「あんな風には、成りたくない」当時、私はあの夢を想い出すと、必ず、その様な呟きを口にしたのである。
			「真実探しなど、もう、やめだ、日の光なら、此処でも、十分に、降り注ぐ」何時の事かは、忘れたけれども、私はつい、その様な考えに捕らわれて、旅する事など、忘れてしまった。その所為だろうか？それからというもの、昔は、一顧だにしなかった世俗的な欲望が次々と、心の底から湧き出し始めた。そして、私はそれらの欲望の虜と成った。食欲も異常なまでに、増進して、以前は、感じなかった空腹感がしつこく、私を責め立てた。無論、今まで、経験した事のない状況であるから、当初は、この様な自分の変化に、少しばかり、戸惑った。だが、現世に住む、人と呼ばれる生物は元来、その様な存在なのだろう。ならば、人である私が世俗的欲望に捕らわれるのも、当然である、と言う事が出来る。別に、気にするほどの問題では無い。ただ、その状態を是認するとしても、何故、私はこの精霊の森に来て、突然、世俗的に成ったのだろう？「ひょっとすると、それはこの精霊の森も、現世の一部である、と言う事だろうか？いや、きっと、そうだ！それで、私は現世では、当たり前の世俗的欲望を満たす生活を望んだ、と言う事なのに違いない」私は殆ど無意識に、今の自分を正当化しようと、その様な詭弁で、自分を騙した。
	無論、私は自分の、その様な嘘に、騙されるほど、愚かでは無い。私にとって、この森が現世のもので無い事は言わずもがなの事実であった。実際、此処では、現世に於いては不可能な事象が当たり前の様に、しばしば、起こる。この森の小高い丘に登って、木々を透かして、見下ろすと、森の切れた向こうには、荒野に生えるススキや灌木が何時も、渦巻く寒風に煽られて、怪しく揺らめいて、ざわめいている。しかも、私はその光景に、しばしば、悪鬼や魔物が互いを食い合う、浅ましい幻すら、見たのである。此処が現世で無い事は確かであった。そして、同じく、此処はあの世でも、空想の世界でもないのである。この世界は主観的風景として、立ち現れた此の世ならぬ実在であった。それを人は霊世界、と呼ぶのである。「ならば、私は何故、腹が減るのだ？」だが、その答えは何故か、見付からない。簡単に見付かる、と思っていただけに、私は酷く、戸惑った。そして、同じく、言い知れぬ恐れすら、覚えたのである。ひょっとして、この脳の退化は、食う事しか、考えなく成った咎めであろうか？それで、腹が減った、と、錯覚するのだろうか？だが、空腹は事実であって、幻ではない。妙な事態ではあるものの、自分の事なので、間違いはない。おそらく、此処では、空腹が、空腹そのもの、として、存在するのである。 現に、私は今、確かに、腹が減っている。ならば、ああでもない、こうでもない、などと考え込まずに、すぐに、森林を切り開き、土地を耕して、糧を得るのが、まともな人間の生き方だろう。此処が現世であろうが、無かろうが、人間として、生きるのであるから、誰も、文句など、言わないだろう。この森に入って以来、もう何年も、思索から、遠ざかっていたので、その様な単純な結論に収束するのも、当然と言えば、当然であった。「事実は事実として、受け止めなくてはならない」私はそう決断すると、糧を得る為に、働いて、空腹と世俗的な欲望に応えたのである。だが、どうした事か？満たされた筈の欲望は治まるどころか、益々、大きく膨らんで行く。そして、それらの欲望はやはり、幻では無く、事実であった。事実には、何者といえども、逆らえない。少なくとも、それは私に取って、私が選択した事実であった。
	いずれにしても、次々と湧き起こる欲望は富を執拗に要求する。私は何故か、知らないけれども、無批判に、それらの要求を受け入れて、ひたすら、懸命に働いた。そして、今、その結果として、私はこの様に、豊かに成った。今、高台の私の豪邸からは、美しい田畑が一望できる。その向こうには、家畜の群がる牧場が魔性の原野のすぐ、側にまで、広がっていた。開墾すべき地はもはや、無い。精霊の森に生い茂っていた多くの樹木は既に、切られて、昔の森の面影は失われていた。私を守ったあの烏鷺も、何時の間にか、消えている。きっと、私が切り倒したのだろうが、何時、そうしたのかは、覚えていない。そして、あろう事か、私は精霊への感謝すら、忘れていた。時折は、昔の森を懐かしんで、寂しい想いも脳裏を過ぎるが、すぐに、欲望が心を満たして、私の感傷を押し退ける。「存在せぬ物に拘って、事実を肯定しないのは、罪悪である、今が良ければ、それで、良い、将来は事実では無いのであるから」私はその様に、自分に言い訳しながら、全ての事実を追認した。そして、過去を振り返る事も、極力、避けた。
	見よ！精霊の森はまさに今、富を産む土地へと変貌している。作物は何時も、たわわに実をつけて、家畜は多くの子を産み続けている。奇妙な事だが、それらの作物の種や、家畜らの親は私が望むと、現れたのである。本来ならば、精霊からの贈り物だろう、と考えて、然るべきであるが、何故か、私は無意識に、その様な推測を意識せぬよう、心の底に押しやった。私は全てをただ、既定の事実として、受け入れて、欲望の赴くままに、生きたのである。その結果、私の資産は加速度的に、増加した。有り余るほどの富を得て、私は得意の絶頂だった。だが、この所、得体の知れない虚しさがしばしば、胸を突き上げて、私の心をかき乱す。心の奥底では、どす黒い凶暴な感情も蠢いている。さすがの私も、この事については、正当化が出来ず、考え込まざるを得なかった。 だが、いくら、考えても、答えは出ない。その所為で、言い知れぬ不安が芽を吹いた。そして、心の平安が乱された。最近、魔性の原野のざわめきが徐々にではあるが、増している。ひょっとして、その事が私の怪しい衝動と何らかの関係を持つのだろうか？私はふっと、その様な事も、考えてみた。だが、それ以上、推理を進める事は難しかった。長い事、思考を止めていた事の咎めであろうか？私はふと、その原因が知りたく成って、自分の脳をチェックしてみた。すると、驚くべき事実が露見した。私の脳には、欲望を満たす為のノウハウ以外、何も残っていなかったのである。善悪の判断基準は既に、そのノウハウの傘下にあったし、人の心を我が心とする様な愛の概念は何処にも見えない。その故に、何もかもが、事実としてしか、受け止められず、不安だけが募り続ける、異常な事態を招いたらしい。その所為で、私はやがて、恐ろしい不眠へと陥ったのである。最近、現れる凶暴な衝動も、おそらく、この事と無縁では無い。少なくとも、取り戻すべき精神がある事は確かであった。だが、欲望を満たす為の、日々の仕事は待ってはくれない。私は恐ろしい不眠と戦いながら、脳に残されたノウハウを駆使して、懸命に、働く事を余儀なくされた。そして、精神を取り戻す作業は積もり続ける財政赤字の様に、放置された侭だった。
				さて、そんなある日の昼下がり、事件が起こった。その日、私は何時もの様に、帳簿を見ながら、資産の点検を行っていた。小窓から、ふっと、野外を覗くと、何時にも増しての好天である。私は帳簿を抱えると、広々としたベランダへと足を進めた。「苛つく気分も、少しくらいは、晴れるだろう」と、思ったのかも知れない。ベランダには、愛用の揺り椅子が置いてある。私は其処に身体を預けると、再び、帳簿を調べ始めた。だが、暖かな日差しに誘われたのか？不眠の付けが回って来たのか？私はつい、うとうととして、気付かぬ内に、寝入って仕舞った。夢の欠片がちらちらと、脳裏に浮かんで、飛び交っている。そして、世俗的な欲望から出た様な、つまらぬ夢が巡り始めた。
	資産の計算をする度に、羊と牛との頭数が何故かは知らないが、変わるのである。だが、頭数の総計は何時も同じで、資産の総計も、変わらない。「羊と牛とは、同じ物か？何故、頭数は増えんのだ？」私は夢の直中で、意味不明な疑問に捕らわれながら、「ああでも無い、こうでも無い」と、懸命に、数字をいじくった。だが、答えは出ない。羊と牛、と言う言葉がある以上、羊と牛とは別物の筈だが、いくら、考えても、その違いは全く、判然としない。牛肉と羊肉の味の違いすら、想い出せない。私は何故か、切羽、詰まった気分に陥った。と、次の瞬間、浅い眠りの所為なのだろうが、私はふっと、「これは夢だ」と、気が付いた。夢ならば、全てを忘れても、問題は無い。私はようやく、難問から解放されて、心地の良いまどろみに躰を委ねた。 だが、妙だ。私の意識は夢には、戻らず、夢の外側に向けられる。つまり、眠っている自分の背後に、人の気配を感じるのである。眠りから、覚めようとしている事は確かであった。無論、この世界に入ってからと言うもの、人間に、遭遇した事など、皆無であったから、「人間など、居る筈が無い」とは、思ったのだが、人恋しさの所為なのだろうか？私は思わず、目を開けて、ふっと、後ろを振いた。すると、思った通り、と言うべきか、予想外、と言うべきか？私の斜め後方に、枯れ枝の様に、やせ細った、ひとりの老人が佇んでいる。だが、人間だろうか？亡霊の様に儚げな、その風体は酷く、みすぼらしくて、怪しげである。「魔性のものか？」と、私は思わず、身構えた。 だが、本当に、魔性のものであろうか？荒野は何時も、見えてはいたが、踏み込まなければ、危険はない。まして、魔性のものが、精霊の守るこの森に立ち入る事など、あり得ない。私はそう、考えていた。だが、私をジッと、見据える老人の人間離れのした風体は、どう考えても、怪しいのである。警戒心が薄れていた分、私の心は激しく、揺れた。と、私の動揺を知ってか、知らずか、老人が、「お前を助けるのでは無かったよ」と、悔しそうに、訴えた。「えっ、私を助けた？」意外な老人の言葉に、私は一瞬、戸惑ったが、その言葉の意味はすぐに、分かった。忙しさにかまけて、忘れていたが、どうやら、彼は私をあの烏鷺にかくまってくれた精霊らしいのである。私はひとまず、ほっとした。
	だが、このみすぼらしい姿はどうした事か？薄茶掛かった灰色の衣は虫が食った様に、ぼろぼろである。そして、肌の色つやも極めて、悪い。「病だろうか？それとも、腹でも、減っているのか？そうか！物乞いに来たのに違いない、まあ、昔は、世話に成ったのだから、飯でも、食わせて、古着くらいは、分けてやろうか？」私は精霊の言葉の意味など、考えようともせず、不遜な態度で、精霊を眺めた。と、今にも、死にそうな精霊が言う。「わしは何度も、何度も、呼び掛けた、不吉な予兆も、お前に示した、なのに、お前は、我欲に心を奪われて、何も気付きはしなかった、わしはお前を許さぬからな」そして、恨めしそうな目で、私を睨んだ。だが、私には、意味するところが分からない。「エ？私が何をしたって言うんです？恩を返せ、と、素直に言って下さいよ！」私はつい、心の中で、その様な悪態を吐いてしまった。
	すると、精霊が怒りを露わにして、述べ立てた。「何と、愚かな、此処に及んで、まだ、気付いてはおらんのか！」その言葉には、今にも死にそうな精霊のもの、とは思えぬほどの迫力がある。私は少し、気圧された。そして、自分の不遜を、少しばかり、省みた。だが、精霊は何故、「私を許さぬ」などと、言ったのか？それが全く、分からない。悪事を為した覚えはないし、此処で土地を耕して、家畜を殖やしただけである。他には、何も、していない。私は腹立たしさを堪えつつ、謙虚な態度を装いながら、「何か、気に障る事でも、したのでしょうか？」と、訝る様に、問い掛けた。だが、精霊は、「今更、何を言っているのか！」とでも、言いたげに、顔を背ける。私はその態度が理解できずに、精霊の顔をジッと、見つめた。すると、精霊が、「人間としては、ましと踏んだが・・」と言いながら、私を睨むと、再び、プイッと、そっぽを向いて、「見込んだわしが馬鹿だった」と、自嘲気味に、吐き捨てた。 だが、私は仮にも、これだけ、努力をして、これだけの財を成した人間である。馬鹿者呼ばわりなど、心外である。私は思わず、ムッとして、「エッ、愚か、ですって？」と、幾分、反発する様に、問いを返した。だが、精霊は冷ややかに、言う。「なるほど、気付かないのも無理はない、お前には、どうやら、過去しか、見えんらしい」「エッ、どう言う意味です？この私が一体、何に気付かない、と言うんです？」私は益々、苛立って、なじる様に、問い掛けた。と、精霊は何故か、顔を俯けて、悲しそうに、ニタリ、と笑う。意外な彼の反応に、私は少し、戸惑った。と、精霊は、「今更、説明して、何に成ろうか、わしは直に、死ぬのであるから」と、独り言の様に、呟くのである。私は、「あり得ぬ事を言っている」と、精霊の真意を測りかねた。
				だが、肉体を持たない精霊が本当に、死ぬ事など、あるのだろうか？何が気に入らないのかは知ら無いけれども、そんな脅しは無いだろう。「それは、もう、私を守らない、と言う事ですか？」私は少し、声を抑えて、恐る恐る、そう、問うた。しかし、精霊は答えない。ただ、悔しげな余韻を残しつつ、そのまま、スウッと、消え失せた。「これから起こる災いは、全て、お前の招いた事だ！」と、その様に言った様にも思うけれども、その記憶は何故か、曖昧である。いずれにしても、私は其処で、目覚めたのだが、果たして、あの夢は何だったのか？この所の怪しい衝動と、何かの関係でも、あるのだろうか？どうしても、ただの夢とは思えない。だが、何の予兆であるのかは、分からないのである。妙な不安だけが心に残った。
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