改訂版　背後の世界 その４　克夫の能力 December 1, 2012. 野口博正.				その５　ライフワーク
	平成12年（西暦2000年）2月13日、これを書き始めた時は、安易に考えていたが、記憶の前後関係の整理、事実確認、また、その時分の私の考え、感情などを思い起こすのは、やはり、なかなか、上手く行かない。全てを書き終えるのは、相当、先に成りそうだ。 1．大学生活 克夫は大学に入ると、随分と性格が明るく成った。大学は郷里からは遠く離れた神奈川にある。親から離れて、一人暮らしを始めた事が幸いしたように思われる。おそらく、初めて、味わう自由であった。だが、人付き合いの下手さ加減は以前と余り、変わっていない。彼が親しく話せる相手は極、少数の人間に限られていた。彼は昔から、人を疑うという事を知らなかった。いや、疑う事に恐れを感じていたのかも知れない。だが、その様な心は随分と、裏切られて来た様に思われる。その事が彼の消極性と相まって、他人との接触を避けさせる。私は当時、その様に、彼を分析していた。
			だが、当時、私は彼に、それだけではない、異様な一面も時折、感じた。彼には、人に対するある種の感覚が欠けているのではないのか、と思ったのである。しかし、それはかなり、漠然とした感覚でしかなかったので、それほど、突っ込んで考える事は無かったのである。 だが、今にして思うと、そう感じさせる彼の気質はやはり、幼少期の彼の心理的体験に端を発していた。そして、それはおそらく、彼自身と世界との間に立ちはだかる魔物の様な障壁だった。「他人は何時も、自分とは、違う世界に住んでいる、何かが、自分を阻んでいる」彼はそう感じていたのに違いない。そして、おそらく、その様な心の障壁が他者との一体感を持つ、と言う人間本来の特性を抑圧していた。意識的ではないであろうが、彼は一種の疎外感に苛まれていた。
	私は当時、法社会学研究会というサークルに所属していた。そして、彼も、後を追うように入会して来た。私は彼の一年、先輩にあたるので、何につけても頼られる。彼は当たり前の様に思っていたが、掲示板を見ていれば分かる事まで聞いてくるので、「あのな」と、閉口する事も、たびたびだった。だが、世間知らずの彼を放置は出来ない。彼の入学当時は、そんな心境で、付き合った。無論、私もそれほど、世間を知っている訳ではなかったが、彼の極楽トンボぶりは、並外れていた。 当時、日本はすさまじい経済成長の真っ直中にあり、７０年代に荒れ狂った学生運動の嵐は急速に、弱まりつつあった。しかし、左翼的な思想はまだ、力を残しており、それは学生達の一種のファッションでもあったのである。むしろ、ファッションへと堕落してしまった、と言うべきだろうか？いずれにしても、頭は左翼、胃袋は資本主義、と言うご都合主義の状態だった。そして、やがて、頭は胃袋に食われてしまう。日本の忌まわしい現状はその所為であるのに違いなかった。 今、必要なのは、外国の哲学ではなく、日本の人々に根ざした文化に基礎を置く思想である。そして、その思想は日本の古代史を正しく書き換える事から、始めなければ為らない。だが、その様な動きは残念ながら、未だに､何処からも、起こっていない。哲学は西洋の物まねであり、日本の古代史は政治的理由で、真実に目を背け続けている。結果、指針と成るべき新たな思想は構築されず、胃袋だけで、生き続けて、生きる方向を見失ったのである。
	参照： 日本文化の源流、その論理的帰結としての世界観. だが、当時、彼も、私も、その様な問題には、気付いていない。左翼思想には懐疑的であったが、少なくとも、その思想を叫ぶ連中の真剣さは信じたのである。そして、当時の若者に見られた既定のものに対する否定の心理が私にも、彼にも、やはり、少なからず、あったのだろう。それが左翼運動へのある種の共感を呼び込んだのかも知れない。その所為であろうか？それとも、ただの怠け癖であったろうか？法科に居ながら、法律について勉強した、という記憶は余りない。むしろ、社会科学の方法論などに、興味を持った。だが、社会科学を実践した事は一度もなかった。大体は学生生活を楽しむ事が優先された。金は無いので、たいした遊びは出来なかったが、純粋に、自由を楽しめた時代ではあった。
	もっとも、その自由は今、若者の一部に見られる無軌道で、野放図な自由ではない。意識をした訳ではなかったが、自分をコントロールする術は自然と体に染みついていた。そして、今、考えても、それは正しい。無軌道な行動は逆に、自由を阻害する。と、言うよりは、自分の意思が分かっていない。また、意思無きところに、自由はない。もしも、精神病棟に居た克夫にこの事を問うなら、その様な無軌道な行動は自らの欲望をサタンに利用された証であり、その陰謀に囚われた証拠である、と言っただろう。 無論、当時は深く考えて、自制的に振る舞った訳ではなく、単に、習慣的なものだった。つまり、当時の日本の社会的な慣習に従っていただけなのである。そして、その慣習は意識下に内面化されていたので、意識など、されなくとも、十分に、スタンダードの役割を果たしたのである。それは、生まれ落ちたその時から、親や近所の人々との交流で培われた習慣であったからこそ、機能し得たのに違いない。社会的なスタンダード、と言うのは、元来、そう言うものなのだろう。いずれにしても、当時の二人は、のほほんとしたノンポリ（ノン・ポリシー）だった。 2．克夫の変化 克夫はある時期から、少し、変わった。それは確か、彼が大学二年の頃からである。「今は、右か左かの選択肢しかない、それはおかしい、共同体の為の新たな視点が必要だ」と、言い始めたのである。そして、「左翼と議論をする為に、理論武装をするのだ」と、様々な書籍をあさり始めた。あの消極的な彼が進んで、人と話をする、と言うのであるから、当時、私は随分と、成長したのもだ、と驚愕を覚えた事を記憶している。しかし、暴力的な衝動を正当化する彼らと議論をするなど、私には、とても怖くって、正気の沙汰とも思えなかった。正直な話、私は右翼には、もっと、否定的であったが、当時の私は極左の運動家を酷く、粗野な人種と考えていた。彼は人間というものを知らぬから、私は本当に、心配したのである。私は彼に、止めるように、と忠告した。 だが、彼は極めて、真剣である。本を読み、そこから､何らかのヒントを見つけると、左翼の学生を捕まえて、所構わずに、議論を始める。その様な事がしばらく続いた。だが、彼の様子からして、どの程度、分かっていたのかは怪しいように思われる。そして、幸いと言うべきか、彼の話は飛躍が大きく、夢想的であったので、むしろ、左翼の連中はおもしろがっていたようだ。彼が議論をして、帰って来ると、時々、馬鹿にされた、と怒っていたが、「変な奴が居る」と言う程の理解の所為で、殴られる様な事はなかったらしい。彼の語り口が何時も、穏やかであった事も、幸いしたのかも知れない。
			そんなある日、克夫が私の下宿を訪れた。これは別に、珍しい事ではなかったが、妙に、顔が晴れやかである。「おっ、どうしたんだ？」私は思わず、そう問うた。すると、彼は数枚の原稿をスッと、差し出す。訳が分からずに、覗いてみると、神の矛盾、と言う表題が大きな文字で、記されていた。少し、戸惑って、克夫の顔を見上げると、彼は、「理論武装が完成した、読んでくれ！」と、言う。そして、返事も待たずに、立ち去った。 果たして、どの様な理論武装であるのか、興味はあるが、大学に入ってから、彼が益々、夢想的に成っている事を考えると、それほどの期待は出来かねる、と考えたが、取りあえず、原稿の一枚目へと、視線を落とした。だが、これは果たして、何なのか？ひと目、見て、私は全く、呆れてしまった。理論武装とはほど遠い、単なるお話にしか思えない。私は原稿を机上に放った。だが、視線は自然と、原稿に行く。今度、顔を合わせたならば、必ず、感想を聞かれるだろう。やはり、一通りは読まねば為らない。再び、原稿を手にとって、渋々ながら、一応、読んだ。そこには、こんな事が書かれてあった。
	ある時、神はふと、宇宙を作ろうと考えた。神は認識をする存在であり、認識をされる存在ではない。つまり、神は認識対象ではない故に、自分を認識する事が出来ないのである。其処で、自分自身を認識対象にすべく、宇宙を産もう、と考えた。つまり、神の意思があまねく、照らす理想世界への認識、つまり、自分自身への認識を求めたのである。だが、反面、面倒だ、と言う想いも、同時に、湧いた。それは宇宙を産み出す事で起こる、様々な問題が想定されるからだった。 だが、理想の世界への想いは強い。神はその様な想いに耐え切れず、問題への対処を考えぬまま、衝動的に、宇宙を作った。すると、神の面倒だ、と思う心がサタンとして、神から分離した。つまり、神は完全に、納得をして、宇宙を作ったのではなかったのである。従って、宇宙は矛盾だらけの世界と成った。 だが、神は心配しては居なかった。宇宙に時間を与えていたからである。「理想の種は時間と共に、宇宙に広がり、理想の世界を作るだろう」神はそう考えたのである。そして、神の予測通り、宇宙は理想へと向かって、動き始めた。サタンの策謀にも関わらずである。サタンの敗北は確定的である様に思われた。 だが、魂を吹き込まれた物質、すなわち、生命が産まれて、人間が現れて、理想の世界が近付くと、サタンは密かに、ほくそ笑んだ。サタンは虚無の到来を予感したのである。だが、彼はおくびにすら、その様な態度を顕さない。神のみ技を宇宙の隅から、じっと、見ているだけである。神はサタンがおとなしく成ったのを見て、自分の勝利を確信した。そして、その確信通り、ついに、神の理想が実現したのである。人々は神を賛美して、神は得意の絶頂だった。 すると、そこに、サタンが突然、現れた。そして、言った。「おお、我が父、神よ、私は今まで、自分の務めとして、貴方と戦って参りましたが、あなたの意思はまさに今、ここに成就されました、理想が実現したのです、心からお祝い申し上げます」そして、神の御前で、膝を付き、額を地面に押し付けて、蛙の様に、ひれ伏した。と、神が言った。「我が光を際立てた、闇の王よ、お前の勤めはもはや、終わった、我が許へと、戻るが良い」すると、サタンが一礼をしてから、神を仰ぎ見ると、言った。「ですが、その前に、しなくては為らない事が御座います、今、現時点に、理想は成就されました、ですが、この侭、時間が進むなら、理想の世界は更に、動き続けるでしょう、これ以上の理想世界はないのですから、これはこの理想世界が崩れてしまう事を意味します、時間を留めなくては為りません」
	すると、神は意表を突かれて、思わず、サタンを凝視した。だが、サタンの言い分は尤もである。このまま、時間が流れるならば、理想世界が変容する事は確実である。いつもの神なら、サタンのこの進言を疑ったのかも知れません。 しかし、神は今、実現した理想郷を目の当たりにし、その光景に、捕らわれております。この世界が壊れるなど、とても容認出来ません。神は慌てて、時間の流れを停止しました。すると、世界は理想郷の侭、一瞬の内に、凍結します。漆黒の闇が全てを覆って、あらゆる認識が消え失せました。神の認識すら、消え失せたのです。 神はあわてて、回復させようと、試みますが、既に、絶対零度の世界ですから、もはや、何も、動きません。神は闇のただ中で、虚無の氷に閉ざされました。そして、サタンの雄叫びが虚無の世界で反響します。「神の理想が神御自身を裏切った！」そして、その声も、すぐに消え失せて、真の暗闇が訪れました。めでたし、めでたし。
	「何処が、理論武装なんだ？」これを読み終えた時、私は思わず、失笑した。だが、言っている事は分かった様にも感じたのである。マルクスの思想は史的唯物論である。そして、その背骨は弁証法であった。しかし、マルクスの場合、彼の理想が実現する時、いきなり、弁証法は捨てられる。人によっては、いろんな理屈を付けて、それは捨てたのではない、と言うのであるが、私を納得させる理屈は見当たらなかった。どんな理屈であったのかは、忘れてしまったけれども、弁証法がそこに至って、無視された事は確かなのである。これは大きな矛盾であった。 「克夫はその事を皮肉ったのに違いない」私はその時、その様に解釈した事を記憶している。だが、今にして思うと、克夫の言いたい事がそれだけであったのか、どうかは、疑わしい。その話には、あの精神病院から送られた手紙の内容と共通性があるからである。彼の狂気と、その様な狂気にいたらしめた何かは大学時代の彼の心に既に、潜んでいたのではないのか？私は今、そう考え始めた。 いずれにしても、当時、彼はその表面的な明るさとは裏腹に、大きな不安を抱えていたように思われる。ひょっとして、理論武装というのは、その様な不安を押し隠す為の冗談であったのかも知れない。だが、その不安とは、何であろうか？彼はその様な不安をあの手紙でサタンの陰謀と表現したのに違いない。彼の感じた幼少期の障壁と関係する事は確かであろうが、それは果たして、単なる個人的な不安であるのか？それとも、社会的危機への不安であるのか？私は彼が亡くなって以来、妙に、その事が引っかかり、気に成るのである。それは彼の持つ特異な能力の故だった。それはある一つの事実から、未来を予見してしまう、と言う理解不能な能力だった。
			だが、今、考えると、それはおそらく、狂気との引き替えに授けられた能力だった様に思われる。高校時代、自分より優秀だった筈の克夫は大学に入った頃から、その優秀さに陰りが差した。学業に、影響が出るほどではなかったのだが、理解力に陰りが見え始めたのである。だが、それは全く、分かっていない、と言うのでは無さそうだった。結論は述べる事が出来たからである。ただ、その結論にいたる論理的な説明が上手く出来ない。だが、私は当時、妙な違和感は感じたものの、「きっと、能力が底を打った所為だろう」と、軽く考えていた。高校では、優秀だった人間が、大学に入ると、その能力が伸びない、と言う者も、全く、皆無ではなかったからである。だが、克夫の場合は、どうやら、そうでは無さそうだった。 我々が人を評価する時、ともすると、知識の量や論理能力だけで、判断しがちなものである。だが、それは必ずしも、正しくはない。たとえ、知識が豊富で、論理能力が優れていても、判断を誤り、間違った結論を述べる人間は多いのである。むしろ、その様な人間の間違いは精緻な論理で武装されている故に、罪が重い。つまり、社会的な悪影響が大きいのである。
	逆に、言っている事は訳が分からぬが、ある特定の問題を判断させると、ほとんど、百パーセント、的確な答えが返って来る様な人間が居る。 つまり、その様な人間の脳は的確な判断を得る為に、外界からもたらされる情報を正しく理解し、極めて、正確に働くが、その判断理由を説明し得る機能は弱いのである。それはおそらく、その思考過程が当人に、余り、認識されていない所為だろう。克夫もまた、その様な類の人間だった。ちなみに、この場合の外界というのは彼の体と精神も含まれる。 だが、克夫の場合、未来の予見能力は先天的な能力ではない。少なくとも、大学の二年までは、その様な気配は無かったのである。そして、その能力が著しく現れたのは、彼が職を失って、しばらくしての事だった。その当時はまだ、彼からの手紙が、時折ではあるが送られて来た。そして、必ず、其処には、今日の予見と言う見出しがあって、将来、起こるであろう事柄が書かれてあった。おそらく、誰にも、言えないので、私に知って欲しかったのだろう。あるいは、彼も、まだ若かったので、自分の能力を自慢したかったのかも知れない。いずれにしても、彼の予見が完全に外れる事は無かったのである。 精神病にも、いろいろ、あるが、論理能力の低下の度合いも、病状や個性によって、かなり、異なる。説明能力は衰えるが、脳そのものの論理能力の低下はさほどでもない、と言う場合も、有り得るだろう。そして、おそらく、その様な人間は元来、直感力が優れているのに違いないのである。
				その事は高校時代の克夫の言動からも、推測できる。彼の場合、結論が先に頭に浮かんで、その後、その説明を考えるのである。克夫の予見能力は彼のその様な脳の活動のあり方に、支えられているのに違いなかった。だが、この予見能力の基礎と成るのは、世界観の大きさと、その世界観と現実との整合性である。特異な脳の活動だけでは、この能力は現れない。実を言えば、私も一時、その様な予見能力を持った事があり、その原因を探った事があるので、分かるのである。 いずれにしても、あの長大な手紙が精神病者の単なる戯言でない事だけは、確かな様に思われる。だが、彼は果たして、何を言いたかったのか？それが皆目、分からない。私はふっと、あの病院の関係者が漏らした克夫の最後の状況を思い起こした。
目次
	その一　狂気の手紙 　　　その二　克夫の生い立ち 　　　その三　奇縁 　　　その四　克夫の能力 　　　その五　ライフワーク
	その六　迷える魂 　　　　　その七　サタンの陰謀 　　　　　その八　認識というもののミステリー
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