----- 改訂第三版 ----- 背後の世界 その３　奇縁 December 23, 2015. 野口博正.				その４　克夫の能力
	平成11年（西暦1999年）10月2日、記憶の前後関係を確認するのに手間取ってしまった。昔なら、簡単に想い出せた筈だが、年の所為だろうか？それとも、一時的な現象だろうか？若い頃なら、もっと、楽に、想い出す事が出来た。なら、やはり、これは老化だろうか？いずれにしても、脳をいたわることは、必要らしい。 中学時代の克夫の事は、ほとんど、何も覚えていない。当時、彼も私と同様に、家と学校の往復以外、戸外に出る事は、本当に、希であった様で、街角などで、見掛ける事も、なかったのである。彼の事は何時しか、自然と忘れてしまった。だが、記憶を辿ると、実は、何回か、見掛けている。だが、「今、見ているのは克夫ではない」と、考えていた。妙な事だが、当時は、それが彼である、と言う意識を持てなかったのである。 これがどういう事なのか、高校時代の私には、良く分からなかった。それで、当時、一度だけ、彼にこの問題を打ち明けた事がある。すると、彼は、「君ではない、と考えていた」と、答えたのである。結局、何故、そうであったのか、と言う疑問は解けなかった訳だが、私はその時、彼との運命的な奇縁を感じた事を記憶している。いずれにしても、中学時代の私にとって、彼は見も知らぬ赤の他人であった。
			だが、今、考えると、高校生であった私がその様な奇縁を感じた理由は、ひょっとすると、私が幼い頃から、彼に興味を持っていた、と言う事の証であったのかも知れない。おそらく、内心は、一緒に遊びたい、と思っていたのだ。だが、当時の私は、その様な自分の気持ちには、気付いていない。それで、遠巻きに彼を眺めて、彼との自分勝手な関係を作ったらしいのである。具体的に、それがどの様な関係であったのかは不明確だが、おそらく、私はその偽物の関係を事実である、と考えていた。 「一緒に遊びたいが、実際には、それがうまく出来ない」と、言うジレンマがその様な歪んだ認識を産んだのに違いない。それで、中学時代、彼を見かけると、無意識に、「あれは彼ではない」と、自分に言い聞かせたのだろう。おそらく、心の中のジレンマを意識したくはなかったのである。無論、それは心の中の葛藤を意識する事で、心の平安が乱されるのを嫌ったからであった。 今でも、自分の気持ちに気付かぬ事は時折、あるので、これも三つ子の魂だろうか？あるいは、私の消極性が未だに、自分の本当の心情を抑圧している、と言う事だろうか？いずれにしても、彼と私には、似通った性質があるらしかった。ならば、彼の狂気も、また、私の中に、あるのだろうか？ふと、その様な不安も、心を過ぎる。だが、今のところ、私は至極、まともであるから、それは多分、杞憂だろう。
	話は少し遡るが、私は高校に入学すると、油絵同好会に入会した。すると、彼もそこにいた。まんざら、知らぬ仲でもなかった所為か、他の部員よりも、先に打ち解けた。あるいは、互いのテンションの低さが気に入ったのかも知れない。それとも、幼児期の互いへの関心の所為であったであろうか？元々、消極的な二人であるから、常識的には、考えがたいが、二人は奇妙に、馬が合った。だが、互いのテンションの低さ、については、注釈が必要だ。少なくとも、克夫に関しては、そのテンションの低さはある真実を隠す為の偽物だったからだ。実際は、彼は何時も、緊張していたのである。だが、私がこの事に気が付いたのは、高校の三年に上がる頃だった。 高校入学当時、私は絵に、興味など、殆ど無かった。学校の決まりで、どこかのサークルには、入らねばならない。それで、一番、楽そうに見えた、絵画のサークルを選んだのである。適度に学び、適度に遊ぶ、入学当初は将来の事など、ほとんど、念頭には浮かばなかった。もっとも、その姿勢は受験の為に、すぐに変更を迫られる。私は極、普通の学生だった。 だが、克夫の入会理由は至極、まじめなものだった。後で知ったのだが、彼が小学校へ上がると、すぐに、母親が仕事をし始めて、家を空けがちと成った、と言う。家のローンの返済に当てる為であったらしい。その所為で、彼は何時も、一人きりで、家にいた、と言う。消極的な彼の性格が遊び友達を作らせなかった。 しかし、当時は、昭和の三十年代である。テレビゲームの類などは、まだ、遠い未来の夢物語だ。テレビも、高価であったので、その様な贅沢は許されなかった。ラジオはあったが、子供向けの番組は僅かである。また、当時のラジオは真空管で、電気代も、馬鹿にならない。その理由で、昼間はニュースを聞く以外は、ほとんど、スイッチは切られていた。克夫は十五分ほどの子供向けドラマ､一作品しか、聞かせては貰えなかった、と言う。 彼の家にテレビが来たのは、小学校の五、六年の頃らしい。だが、チャンネルは親が管理しており、勝手に見る事は許されなかった。彼は素直であったので、たとえ、親が外出しても、盗み見る事はなかったのである。 だが、それは必ずしも、彼がよい子であった、と言う事を意味しない。彼はいわゆる勉強は相当に好きではなかったらしい。従って、時間はあっても、宿題以外、勉強らしい勉強はしなかった、と言う。かと言って、パソコンやスマホなど、ない時代であるから、何もない一人の部屋では、出来る事は限られていた。本を読んでは、空想にふけり、絵などを描いては、飽きずに眺める、小学校の時分には、それが彼の日常だった。中学に入ってからは、一緒に遊ぶ友達も、僅かながら、増えたらしいが、基本的には、やはり、家に居る事が多かったので、読書と絵を描くのは彼の欠かせぬ日課であった。
	母親は昔、文学少女だった様で、本を読むのが好きだった。彼女はその趣味を克夫にも、期待したらしく、克夫が幼児の頃から、少年少女文学全集、動物図鑑、絵画集など、様々な本を買って、彼に与えた。「子供向けの話なら、他の誰よりも、知っている」それが幼年期から中学時代に掛けての彼の唯一の自慢であったらしい。 無論、たまには、気晴らしに、野原や公園に行って、一人遊びをしていたが、遊び相手は、だいたいが、数少ない友達では無く、幼い頃と同様に、蟻とか、バッタ、あるいは、猫、蛙などである。それでも、当時はそれで、結構、満足していた、と言う。特に、小学校の時代、友達との交流は、少なくとも、意識の上では、それほど重要な事では無かったのである。高校時代、彼は、「俺は猫や昆虫と話が出来る」と、真顔で言ったが、今、考えると、あれも、どうやら、本気だったらしい。 だが、中学にあがって、二年目に差し掛かろう、と言う時、心境が少しずつ、変わり始めたらしい。何とは無しに、頭を擡げる疎外感。そして、容姿も頭の出来も中程度、という自分自身に下す自分の評価。本は相も変わらず、読んではいたが、時が進むほどに、憂鬱な気分は増して行く。やがて、これと言った夢もなく、課せられる課題を淡々とこなす、どちらかと言えば、退屈な曇天の様な日々を、過ごす事と成ってしまった。そして、その様な状態は中学を卒業するまで、続くのだが、彼がそう成った一因はおそらく、彼の両親の間のトラブルだった。
	彼は大学時代、「どんなトラブルかは知らんけど、その事も俺の心に暗い影を落としたようだ」と、まるで、他人事でもあるかの様に、淡々とした様子で、語ってくれた。克夫が中学校に通っていた当時、夫の収入が随分と増えたので、彼の母親はローンを支払う為に始めた仕事を辞めてしまった。克夫と一緒に、家に居る場面が増えたのである。その所為か、彼女はせっせと、克夫の面倒を見始めた。そして、いろいろな干渉も、始めたらしい。最初、克夫は、「仕事を辞めて、暇に成ったからだ」と、思ったそうだが、何故か、彼は、その理由付けに納得できず、もやもやとした気分に陥った、と言う。そして、その漠然とした不安は彼が中学を卒業するまで、ずっと、続いた、と言う。 また、克夫に拠れば、母親は、時として、彼の父親と結婚した事を祖母、つまり、夫の母親からは、随分と感謝された、などと、克夫には、余り関係のない事まで、話し始めるので、彼はその度に辟易とした。無論、当時の克夫は家で、何が起こっているのか、具体的な事は全く、知らなかったが、彼の無意識は両親の間の亀裂を敏感に感じていたのに違いない。おそらく、克夫の母親は夫との間の問題の為に、自分のアイデンティティーを失い掛けていたのかも知れない。それで、無意識に、自分のアイデンティティーを保とうと、克夫の面倒を見始めた、と言うのが、真相であった様に思われる。 だが、当時の克夫には、その様な母親の干渉が鬱陶しくて、適わなかった。やはり、克夫は両親の問題に、うすうすは、気付いていたのに違いない。それで、両親の間に問題がある、と言う認識を心の隅に抑圧した。その所為で、彼は現実に対して、背を向けてしまったのではないのだろうか？ 当時、彼の家庭は経済的には、非常にうまく行っていた。以前の貧しい生活など、忘れたかの様に、豊かな生活を楽しんでいた。だが、ひょっとすると、その豊かさが夫婦の亀裂を産んだのかも知れない。現在の社会の状況を考える時、ふと、その様な想像にも、捕らわれる。いずれにしても、その様な家庭の環境が彼の心に何らかの影響を与えただろう。おそらく、彼の心は、危うい状況にあったのだ。
			だが、克夫がぐれる事はなかったらしい。元来、おとなしい彼にとって、自分がぐれるなど、全く、考えられない話であった。テレビドラマの影響だろうか？彼は粗暴な連中や万引きをなど唆す連中を異常なまでに、軽蔑していた。そして、良い子を装い、影で悪さをするような卑劣漢にも成りたくはない。彼がその様な自分の心をどの程度、意識していたかは、はっきりしないが、彼は本当の良い子で居たかった。 ならば、それは誰に対しての、良い子であったろう？おそらく、克夫の場合、その対象は母親であった。母親は特に、幼少期と中学時代、彼に付き切りのような所があった。多少、うるさくは感じても、その影響は計り知れない。母親に対して、良い子でありたい、と言う彼の気持ちは、当然と言えば、当然であった。 だが、その様な彼の心は、おそらく、彼自身、気付かないまま、大きな問題を抱え込んでしまった。中学時代の彼は、自分の殻に閉じ籠もり、現実を見ては居なかった。いや、むしろ、現実と言うものに気付き始めて、その事に戸惑い、殻に閉じ籠もった、と言うのが真相であったのかも知れない。そして、その様な現実の中には、両親の間の問題も、あったように思われる。そして、おそらく、その様な、認識したくはない現実が、彼の心に、悪しき作用を及ぼしていた。
	その所為か、どうかは、知らないが、中学の二年に上がった頃には、妖怪や幽霊などの落書きをしばしば、描いていたらしい。そのスケッチブックは他の落書きや絵などを除いても、十数冊にも、上ったらしい。だが、彼によると、それは酷く陰惨なタッチで書かれていた、と言う。「ひょっとすると、相当に、どろどろとした感情が渦巻いていたのかも知れない」何時であったのかは忘れたが、彼はその様な自己分析を、まるで、独り言の様に私に語った事がある。彼にとって、中学時代は中世の暗黒の様な時代であった。 そこで、彼は我々の母校に入学が決まった時、彼なりの一念発起をしたらしい。画家に成ろう、と思ったのである。何故、画家であったのかは、本人にも、良くは分からないらしい。私はその話を聞いた時、少し奇妙には思ったが、そういう事も、あるのかな、と、深く考える事はしなかった。だが、今、考えると、それはひょっとして、彼の思考回路がおかしく成り始めた兆候だったろうか？克夫は翌日、「多分、中学で唯一、ほめられたのが絵画だった、からではないのか？」と、自分が見付けた答えを私に述べた。こっちとしては、大して興味のある話ではないから、「ああ、そうなのか・・」と、返事を返すと、彼は、「まあ、画家で無くても、良いのかも知れんけど・・」と、妙に低いトーンで囁くのである。理由は分からないが、私はその囁きを妙に、はっきりと記憶している。 だが、絵には、相当の自信を持っている節も窺えたから、いい加減に決めた様にも思えない。あの時は、本心を覚られたくなかった、と言う事だろうか？彼には、時折、本気か、冗談か、分からぬ事を言う妙な癖があった。いずれにしても、彼にとって、油絵同好会への入会は画家に成る為の大事な一歩に違いなかった。そして、彼の心の状態も、良い方向に、変わりつつある様に思われた。彼の心のルネッサンスは成功するかにも見えたのである。私はその時、友の変貌を素直に、喜んだが、その一方で、取り残されるような、悔しい気分にも陥って、漠然とした不安も、少し感じた。
	だが、その様な彼の試みはすぐに、挫折させられる。彼の両親が反対だった。絵などにかまけてばかりだと、学業の方がおろそかになる。「趣味としてなら、認めるが、おまえの仕事は大学受験だ、絵の事は大学に受かってから、考えなさい」それが両親の意見であった。 当時、担当の教師は彼の才能を認めていたが、なまじの事では、成功など出来ぬ世界であるから、両親の意見はあるいは、正しかったのかも知れない。だが、その反対が是であったのか、非であったのかは、別にして、その様な両親の対応は彼がその難しさを悟る絶好の機会を奪ってしまった。残念な事に、克夫はさしたる抵抗もせぬ侭に、両親の言葉に従ったのである。そして、彼の灰色の高校生活が始まった。彼には、強い意志というものが欠落していた。
	彼は高校の二年に上がると、小説などには見向きもせずに、哲学書などをあさり始めた。当然、勉強の方はおざなりである。今にして思うと、それは両親に対する密かなる反抗であったのかも知れない。私もその影響で少し読んだが、内容に惹かれたのではなく、哲学という言葉の響きに惹かれただけの、一種の未知なるものへの憧れだった。そして、少なくとも当初は、彼も、私と同様だった様に思われる。 いずれにしても、学校で教えないものには、妙に、興味をそそられたのだ。ソクラテスの対話方式をまねて、議論をする事も良くあった。だが、しょせん、それは遊びであるから、哲学とは、随分と、遠いものだった。私は受験勉強の為に、その様な遊びからは次第に遠ざかってしまったが、彼はひとりで、続けたらしい。彼の独自の論理と世界はその辺りから、始まったのかも知れない。
				だが、彼の世界は当初、彼自身の正義感や当為のみで成り立つ極めて、偏狭な世界であり、現実とは酷く、かけ離れた、夢想的な世界であった。そして、彼はその様な自分の世界に、がんじがらめに縛られていた。後年、彼自身がその様に言っていたので、それはおそらく、真実だろう。 「少なくとも、主観的な世界は開放系で在らねばならない、つまり、客観的な認識だけではなく、未知の論理や存在とも、整合性を保ち得る世界でなければ､その世界観は偽物だ」それが彼の後年の持論であった。だが、高校時代の彼は狭い世界に捕らわれており、唯我独尊を決め込んでいた。そして、受験勉強の方はおざなりであった。頭は私より、良い筈であったが、彼は私の通う大学に、一年遅れで、入学した。学部も同じ、法学部であった。
目次
	その一　狂気の手紙 　　その二　克夫の生い立ち 　　その三　奇縁 　　その四　克夫の能力 　　その五　ライフワーク
	その六　迷える魂 　　　　　その七　サタンの陰謀 　　　　　その八　認識というもののミステリー
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